(働き方改革を問う:3)揺らぐ正社員像 「息子は使いつぶされた」

朝日DIGITAL 2017年5月28日05時00分

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渡辺航太さんの遺影を掲げ、裁判への支援を訴える母淳子さん(右)=3月23日、川崎市(画像省略)
 2014年4月24日の午前9時過ぎ。深夜勤務を終え、原付きバイクを運転していた青年が電柱にぶつかって死亡した。横浜市の職場から都内の自宅に戻る途中だった。

渡辺航太さん、当時24歳。デパートなどから注文を受けて観葉植物や季節の花々を飾りつける会社、グリーンディスプレイ(本社・東京)で13年10月から働いていた。14年3月に正社員に登用されたばかりだった。

介護職の母淳子さん(60)の収入では母子が食べていくのがやっとだった。それでも大学に進みたかった航太さんは都内の私大の夜間コースに進学。昼間に飲食店やコンビニでアルバイトをして学費や生活費を補いながら13年春に大学を卒業した。「早く正社員として社会に出て、お母さんを助けたい」。口癖のように話していたが、新卒で正社員の仕事は見つからなかった。

単発のアルバイトをしながらハローワークに通い、ようやく見つけたのがグリーン社だった。面接を受けると、正社員の採否は告げられず、仕事ぶりを見るためもあってアルバイトとして働くことになった。求人票によると、就業時間は「8時50分〜17時50分」で、時間外労働は「月平均20時間」。大卒正社員の月給は20万円ほどとあった。

「正社員になれば、一家の収入が2倍になるね。がんばろう」と喜び合ったのを淳子さんは覚えている。

だが、植物の飾りつけなどは、夜間の作業がしばしばだった。クリスマスがある冬は特に忙しかった。タイムカードによると、13年11月は出勤日数25日のうち、午後10時までに帰れたのはわずか6日。午前0時以降まで働いた日が10日以上あった。電車で帰れない日は淳子さんから借りたバイクで帰った。

14年3月に正社員になれた頃には航太さんは疲れ果てて見えた。体調を心配した淳子さんは声をかけた。

「お母さんは航太が健康でいてくれれば幸せだよ」

「だけどね……」。航太さんは口ごもった。大学時代に260万円ほどの奨学金を借りていた。やっと見つけた正社員の仕事を簡単には手放せなかった。事故前日は午前11時過ぎに出勤。仕事が終わったのは翌24日の朝9時前だった。休憩を挟んだとしても長時間の深夜勤務をこなしていた。

「正社員というニンジンを鼻先にぶら下げられて、航太は使いつぶされてしまった」。長時間労働が事故の原因で、社員の安全への配慮を怠っていたとして、淳子さんはグリーン社を相手取り、損害賠償を求める裁判を起こした。会社側は裁判で「深夜労働が必要な日は当日や翌日の出勤時間を遅くしていた」などと主張し、責任を否定している。
 ■「求人詐欺」食い違う条件

東京の私大を卒業し、エステ店を展開する都内の企業に就職した20代の女性は精神疾患を発症し、昨年10月に休職に追い込まれた。女性側の説明はこうだ。

「基本給20万円プラス各種手当」「1年目の平均月給は25万円」。大手の就活サイトにこんな情報が載っていた。志望していた美容業界の中では「給料が高い方だ」と思い求人に応募。昨年4月、顔のマッサージなどの施術をする正社員として採用された。だが、入社式後に示された書面に書かれていた実際の待遇は「基本給15万1千円」。時給に換算すると908円。東京都の昨年9月までの最低賃金とほぼ同じ水準だった。

3カ月の研修を終え、都内の店で本格的に仕事が始まった。普段は午前10時に出勤し、お客のカルテの確認や清掃などの準備にかかる。午後1時の開店から9時の閉店まで施術を繰り返す。予約がびっしり入った日は8人に施術し、まとまった休憩時間が取れない日も多かった。1人あたり15分ほど自動の機械で施術する時間帯があり、この間にスタッフルームで昼食の仕出し弁当をかきこんだ。

閉店後も書類作成に追われ、退勤は11時ごろ。「過労死ライン」とされる月80時間ほどの残業が続いたという。いくら残業しても、支払われるのは月4万9千円の固定残業代だけ。就活サイトの情報とまるで違う内容に「ハテナ、ハテナが頭の中に浮かんだのですが……」。税や社会保険料、4万5千円の寮費などが差し引かれた後の手取りは大抵月12万円余り。それでも辞めようとは思わなかった。

「辞めても別の会社が採ってくれるのかと心配で」

休日も友人に会う気力はなく、引きこもりがちになった。医者にかかると、「3カ月は休んだ方がいい」と言われ、診断書をもらった。その翌日から休職に入り、実家に戻った。

エステ業界の働き手が個人で加入する労働組合、エステ・ユニオンの事務局の佐藤学さんは「実際と異なる労働条件を示して社員を集める典型的な『求人詐欺』だ。固定残業代についても前提となる残業時間を働き手に明示していないと認識しており、違法の疑いがある」と訴える。

会社の代表者は取材に対し、「ネット上の求人情報の過去のデータは保存しておらず確認していないが、実際の給与額は採用時の個人面接などで説明した。固定残業代の前提となる労働時間数は、雇用契約書や就業規則に明記している」などと説明し、主張は食い違う。女性は同ユニオンの支援を受けながら、未払い賃金の支給などを求めて交渉を続けている。
 ■待遇差以外にも課題

非正社員は今や働き手の4割ほどを占める。低賃金で雇用も不安定なのに、正社員と同じような仕事を任されたり、長時間労働を迫られたりすることが少なくない。

「なんとかして正社員として働きたい」と考えるのは無理からぬことだ。労働政策研究・研修機構が15年に20歳以上の4千人を対象に実施した調査によると、正社員の働き方とされてきた「終身雇用」を支持する人が9割弱、「年功賃金」では8割弱に達した。しかし、新卒一括採用がなお主流で、転職して正社員の職を得るのは簡単ではない。

実際の労働条件と異なる「好待遇」で誘う「ブラック求人」も横行している。辞められずに頑張り続けて精神的・肉体的に追い詰められたり、最低限の給料さえもらえなかったりといった悲惨な事例が後を絶たない。

必ずしも「正社員になれば安心」とは言えないのが現実だ。安倍政権は格差是正に向けて「同一労働同一賃金」を掲げるが、「非正社員の待遇を正社員に近づける」だけでは解決できない問題があるのは明らかだ。(庄司将晃、牧内昇平)
 ■<視点>転職のハードル、下げる方策を

こうした「悲劇」をなくしていくためには、どうすればよいのか。

法政大キャリアデザイン学部の上西充子教授は「最低賃金や労働時間といった労働条件や、求人情報の正確性に関する法令を企業に守らせることが大前提だ」と指摘する。就職活動で苦労し、「仕事を失いたくない」と考える若者の心理につけ込む「ブラック求人」の取り締まりを強化するのは当然だ。

上西氏は低所得者向けの住宅補助や失業給付といったセーフティーネットを充実させるなど、働き手が自らの意思で転職しやすい環境を整える必要があるとも主張している。傾聴すべき提言だと思う。転職が容易になれば、働き手が勤め先を選別する傾向が強まり、企業は人材確保のために労働条件の改善を迫られる。ブラック企業は人手を確保しづらくなり、正社員か非正社員かを問わず、働き手の待遇改善や労働環境の底上げにつながるはずだ。

政府の働き方改革実行計画は「官民一体となって、転職・再就職者の採用機会を広げる方策に取り組んでいく」と明記。企業が受け入れた転職者の能力開発や賃上げへの助成拡大といった方針を盛り込んだが、転職のハードルを大幅に引き下げる方策は見当たらない。労使も腰が重いが、ライフステージに合わせて多様な働き方を選べる社会をつくるためにも、長期雇用の正社員を中心に据えてきた「日本型雇用システム」の見直しは避けて通れない。(庄司将晃)



次回は6月4日朝刊です。残業時間の上限規制が決まる舞台裏に迫ります。

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