東京社説 福島原発停電 体質が変わっていない

2013年3月22日
 
一匹のネズミのせいだったという。東京電力福島第一原発を新たな危機に追い込んだ停電。そのもろさと公表遅れは多くの国民を不安がらせた。東電は、あの震災から何を学んできたのだろうか。
 
福島第一原発で停電発生、使用済み核燃料の貯蔵プールが冷やせない−。多くの人の心の中に、二年前のあの悪夢がよみがえったに違いない。ましてや、つい一週間前に、日本中が東日本大震災から二年を振り返り、過ちは繰り返さないと誓いを新たにしたばかりの出来事だ。あれだけの事故を起こしておきながら、東電は変わっていない。そう思われても仕方ない。
 
言いたいことは三つある。
 
第一に、停電事故そのものについてである。原発事故を防ぐには、何よりも「冷やす」機能が重要だ。骨身に染みたこの教訓を、東電はおろそかにしていたかのようである。
 
原発を冷やすには、複数の電源による強固なバックアップ体制が必要であること。これは震災が残した最大級の教訓だったはずである。ところが今回の停電は、3、4号機の使用済み燃料プールにつながる仮設の配電盤から、1号機や除染装置など計九つの装置へ逆に危険が広がった。いずれも安全確保の要になる設備である。仮設であろうと「備え」は必要だ。
 
次に公表の遅れである。住民自身が生命と健康を守るには、迅速かつ正確な情報提供が欠かせない。原発事故時、情報不足が適切な避難を妨げ、被ばくした被災者は少なくない。それでも今回東電は、停電から三時間以上も事実を公表しなかった。福島県などに伝えたと言うが、重大性、速報性を考えるなら、報道機関を用いるべきではなかったか。
 
三つ目は、公表の中身である。会見した東電幹部は、「事故」とは言わず「事象」と呼び、「原子力の世界では、放射性物質の影響が出るようなことがなければ事故ではない」と言い張った。住民の心情より原子力ムラの特別なルールを優先させる思考法も、どうやら変わってはいない。
 
結局東電には、住民の側に立つ視点が育っていないようだ。
 
放射能におびえ、不自由な暮らしを長く強いられる被災者の怒り、そして新たな事故の発生を恐れる国民の不安を共有できない限り、過ちは繰り返されかねない。信頼は戻らない。信頼が戻らなければ、原発再稼働の検討などありえない。

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