西日本新聞社説 ビキニ事件60年 核被害の深刻さ訴え続け

西日本新聞 2014年03月01日

 1954年3月1日、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、米国は水爆の爆発実験を行った。約160キロ東にいた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が、実験で生じた放射性降下物に被ばくし、約半年後に無線長の久保山愛吉さんが死亡した。

 この「ビキニ水爆被災事件(第五福竜丸事件)」から、きょうで60年となる。事件は当時の日本社会に大きな衝撃を与え、日本で核兵器廃絶運動が高まる大きなきっかけとなった。

 この事件は今も、日本人が核や放射能について考えるとき、主に二つの面で教訓を与えてくれる。

 一つは、核兵器の非人道性である。核兵器は使用された場合はもちろん、開発段階でも周囲に大きな被害を与えるということだ。

 米国だけでなく、旧ソ連の核実験場についても、周辺住民の健康被害の深刻さが指摘されている。しかし、日本政府は核大国の米国に気を使い、核兵器の非人道性を訴える国際運動に対し、一歩距離を置く姿勢をとり続けている。

 もう一つは、放射能被害の永続性だ。ビキニ環礁の実験では、福竜丸同様に、近くのロンゲラップ島が放射性降下物にさらされた。急ぎ避難した島民は、米国の「安全宣言」に従い一度は島に戻るが、残留放射線による健康被害の懸念が強まり、85年に再び島を離れた。その後、米国とマーシャル諸島政府が「再定住事業」を始めたものの、帰島は進んでいない。

 放射性物質による広範囲の汚染、住民の健康不安、地域社会の分断、避難した後の帰還の難しさ−。ロンゲラップ島住民の経験は、東京電力福島第1原発事故による避難住民の苦難と重なる。

 核実験であれ原発であれ、一度放射能被害に見舞われると、地域社会の回復には長い時間がかかる。福島とビキニとで経験を共有し、地域再生に生かしてほしい。

 現在、第五福竜丸の船体は東京都江東区夢の島の展示館に保存されている。その古びた船体を見るとき、核と人間の共存の難しさに思いを巡らさずにいられない。

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