毎日社説 週のはじめに考える 大学は何のためにある

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015032202000151.html
毎日新聞 2015年3月22日

 卒業生を送り、四月には新入生を迎える大学に厳しい問いが突きつけられています。「大学は何のために存在するのか」。そこに生き残りもかかります。

 一八七七年、日本の近代国家建設の任務を背負わされて東京大学が設立されてから百四十年。大学は「エリート教育」から「ユニバーサル教育」と呼ばれる時代へと大きく変わりました。同年齢の大学・短大への進学率が50%を超えて、だれでもが大学へアクセスする時代という意味合いです。

◆ユニバーサル教育の時代

 日本の四年制大学は、国立八十六校、公立八十六校、私立六百三校の計七百七十五校、文部科学省の二〇一三年度の調査では四年制大学に二百八十六万九千人、短大、専門学校、高等専門学校を加えると高等教育機関の学生は三百六十五万五千にのぼりました。教員は十九万一千人です。

 大学大衆化時代だからといっておざなりな教育は許されません。少子化の時代、大学に特色や魅力がなければ学生は集まらず、私立大学は倒産の危機に瀕(ひん)します。英文法be動詞活用や分数計算、化学の元素記号など中学程度の基礎的学力を身に付けさせるリメディアル教育も時には必要になります。創意工夫がなければ大学が淘汰(とうた)される時代になりました。

 国立大学が法人化されたのは〇四年でした。大学自主運営の理想は遠く、着実に進められてきたのが国立大学への運営費交付金削減と文科省からの天下り。一五年度予算案の運営費交付金は一兆九百四十五億円ですが、毎年1%、十年前と比べて千三百億円もの削減となっています。

 容赦ない財政削減とともに安倍政権が進めているのは大学の選別と序列化、組織の統廃合にみえます。競争原理も導入されます。

◆進む選別と序列化

 昨年九月の「スーパーグローバル大学」の選定には、百四校が応募、その結果、世界大学ランキング百位以内を目指す「トップ型」に東大、京大、名大、早慶など十三校、「グローバルけん引型」に二十四校が選ばれました。

 トップ型には年最高四億二千万円の補助金が十年、けん引型には一億七千万円の支給。補助金は海外大学との連携、外国人教員の人件費、外国語授業などに充てられますが、選定にもれた他大学は放置されたままなのでしょうか。

 昨年八月の文科省の通達も国立大学の文科系学部関係者を震撼(しんかん)させました。教員養成系、人文社会科学系学部に「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」を促していたからです。

 「日本には文科系学部が多すぎる」「シェークスピア研究より英会話」は産業界からの強い声でした。自前で人材を育てる余力を失ってしまった企業が大学に求めたのは仕事に役立つ実学教育や即戦力人材の養成です。文科省通達は財界の要請を受け入れたもの。「国立大学から文系学部が消えるのか」の疑心暗鬼が広がりました。

 大学は何のためにあるのか。時代や社会の要請に応えるのも大切な役目の一つでしょう。大学大衆化時代にあっては学生が就職できるようにビジネス英語や簿記、会計を身に付けさせるべきかもしれません。しかし、大学はやはり「学術研究と教育の場」であるべきです。人知れずの黙々の研究がノーベル賞になったり、実生活と無縁にみえる数学や哲学、歴史研究が長い目では大いに役立つとの真理の逆説を知らせたり。学生には自ら課題をみつけ考えられるようにする。それが最重要の任務にも思えるのです。

 和歌山大学で六年間学長を務めた山本健慈学長ら国立六大学の学長が文科省で記者会見して運営費交付金の増額を訴えました。和歌山大学は地方創生の核ともいえる観光学部をつくり、学生を育て直し、生涯応援することを約束して社会に宣言、タイや地域の過疎地派遣で学生が活動的に変わることを目撃しました。「そんな努力にも限界がある」が学長たちの訴えでした。

 苦しくとも教育への投資が国を興します。いま、大切なのはその「米百俵」の精神。地道な努力に光を当てなければ。

◆訓練で自己を確立せよ

 学生は大学で何をすべきか。「学問のすゝめ」の福沢諭吉も「君たちはどう生きるか」の吉野源三郎も「二十一世紀に生きる君たちへ」の司馬遼太郎も、先人たちが語るのは同じにみえます。

 「君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。−自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、すなおでかしこい自己を」は司馬遼太郎です。

 「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」は訓練で身に付けよと言っています。
 

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