「70歳まで働こう」 年金増額は有効か? 編集委員 大林 尚
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大林 尚 コラム(経済・金融) Nikkei Views 編集委員2019/10/8 11:30日本経済新聞 電子版
余生という言い方がある。手元の辞書を引くと「引退して余生を田舎で楽しむ」という例文が出てくる。文字どおり現役を退いた後の気ままな暮らしを心待ちにしている人は少なくなかろう。ところが人生100年時代構想を旗印に掲げる安倍政権は、年金制度を使って「余生の先送り」を促そうとしている。
厚生労働省が8月に公表した年金財政の検証結果に合わせて(1)高齢者が年金をもらいだす年齢を75歳まで先送りできるようにする繰り下げ受給のススメ(2)基礎年金の保険料支払い期間を40年から45年に延長する改革――などを提起したのは、その流れに沿った動きだ。
もうひとつ、俎上(そじょう)に載せたのが在職老齢年金の制度変更だ。現在、月収47万円を超す稼ぎがある65歳以上の人は、本来もらうべき厚生年金が減らされたり支給を止められたりしている。厚労省はこの月収基準を62万円程度に引き上げ、年金減額・停止の対象者を少なくする考えをもっている。
9日の社会保障審議会・年金部会に具体案を示すとともに、2020年の通常国会に関連法の改正案を出すべく、準備をすすめている。年金部会には働く高齢者の年金増額を支持する委員が多いとみられるが、この制度変更の得失を慎重に吟味することが大切だ。
まず、どういう目的で働き手の年金を増やそうとしているのかが、いまひとつはっきりしない。年金財政の厳しさが増すなかで、給付を増やす制度変更を認めてよいのかという疑問もわく。在職老齢年金が高齢者の働く意欲をどの程度阻んでいるかについても丁寧に見るべきだろう。
なにより見逃されているのは、企業が高齢の雇用者の待遇を決める際に、その人がもらう年金の水準をある程度、勘案するという雇用慣行だ。じつは、この慣行には司法がお墨つきを与えている。
雇用者が定年後に再雇用されて同じ仕事をつづける場合、賃金が下げられることの是非が争われた裁判で、最高裁は2018年6月、賃金減額を認める判決を出した。横浜市内の運送会社で働く3人のトラック運転手が、賃金が2〜3割下げられたのは「同一労働・同一賃金」の考え方にもとり、不当だと訴えていた。
給与や手当の一部のカットが不合理ではないと判断した理由のひとつに最高裁は「一定の条件を満たせば厚生年金の支給もあること」を挙げた。厚生年金をもらっている働き手は、給料が現役時より減らされることに一定の合理性があるという考え方をとっているわけだ。現実問題として、中小企業を中心に、嘱託社員などとして高齢者を再雇用する場合は年金の水準も参考にしながら給料の水準を決めるのが一般的になっている。
この慣行が変わらなければ、働く高齢者の年金減額を緩和しても、企業側が給料を中期的に下げてゆく可能性は否定できない。むろん人手不足が深刻さを増している折、働き手を確保するためにも給料を下げない選択肢もあろう。
政府は全世代型社会保障検討会議を立ち上げたばかり(9月20日)
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ただ65歳以上の人で厚生年金の支給が停止されているのは現在36万人程度と、受給権をもつ人の1.4%にすぎない。このような高齢者は恵まれた働き手とみていい。企業の役員も含まれている。そもそも給料を十分にもらっている人の年金を増やすのは「稼得能力を失ったときの社会保険」という厚生年金の役割に逆行する。年間数千億円の財源をどこからもってくるのかという難題もある。
厚労省はことあるごとに年金は「貯蓄ではなく保険だ」と繰り返している。想定外に長生きしてしまうリスクに備えるための制度という説明である。65歳以降への繰り下げ受給のススメに躍起になっているのも、その表れだ。にもかかわらず、世間水準に照らして収入面で恵まれている高齢者の年金を増やそうとするのは、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものではないだろうか。