第344回 99年前の父の軍隊手帳が出てきました

 私の父は明治32年(1899年)9月生まれで、1991年10月に満92歳で亡くなりました。私は昭和19年(1944年)年3月生まれですから、父が44歳の時にこの世に生を享けたことになります。7人きょうだい(兄1人、姉5人)の末っ子で、一番上の姉とは19歳離れています。子どもの頃、家業の百姓仕事を手伝っていたときに、父に徴兵について質問し、「軍隊では塹壕を掘っていた」と聞いたことがありました。その記憶があって、70歳になって退職した2014年の6月に、もし父が戦死していたら、この世に私はいないという思いを込めて、下手な短歌を作りました。

百姓が塹壕堀りの兵となり病気除隊でわが父となる 

その後、父はいつ召集されたのか疑問になり、兄や姉たちに尋ねましたが、だれも分からないということでした。田舎の役場にも問い合わせてみましたが、手掛かりはありませんでした。

ところが、昨年の11月、実家に帰省した折りに兄から、偶然に見つかったという父の「軍隊手帳」をもらいました。その兵歴には次のように記されています。

大正8年(1919年)12月1日召集、歩兵として第72聯隊第9中隊へ入隊

大正9年(1920年)3月29日、第20師団に転属、門司港出発、30日釜山港上陸

同年4月1日 歩兵第77聯隊第11中隊に編入

同年8月25日、左湿性胸膜炎で入院

同年11月 除隊

召集されたのは20歳のときでした。当初の服役期間は大正8年12月から11年11月までの3年間でしたから、兵役に服すべき期間を2年残しての病気除隊だったようです。

子どものころ、父の母、つまり私の祖母から「父が朝鮮で病気になったので自分が迎えに行った」と聞きました。そのとき祖母は父の回復を祈願して肉断ちをしたとかで、死ぬまで肉を食べませんでした。なお病名の湿性胸膜炎は、ネットでみると結核や肺炎から胸部に浸出液がたまり炎症が生じる病気で、かつては肋膜炎(ろくまくえん)とも呼ばれていたようです。

父が所持していた「軍隊手帳」はパスポートとほぼ同じ大きさです。開くとまず(軍人)勅諭と(軍人)勅語および(軍人)讀法が載っています。そこには戦いにおいては「死は鴻毛より軽し」「上官の命令は絶対である」などと書かれています。そのあとに、本人の所属師団、聯隊、兵卒の階級などが印字で、生年月日、現住所、兵歴などが毛筆で記入されています。

「軍隊手帳」は除隊後も必携だったようで、父の手帳には、大正10年、大正13年、大正15年、昭和3年、昭和5年に「簡閲点呼」――陸海軍で予備役・兵役後の下士官兵や補充兵を召集して行った点呼――があったと記録されています。さらに「昭和4年7月18日より同月31日まで第47聯隊第7中隊に於いて勤務演習」という記載もあります。簡閲点呼の最後は昭和5年(1930年)となっていますから、除隊しても10年間は帰休兵および予備役として軍隊に縛られていたことになります。

妻の父(義父)も戦争にかり出されました。入隊のはっきりした日にちはわかりませんが、昭和18年(1943年)3月生まれの妻がまだ母親のお腹の中にいるときに出征したと聞いています。昭和20年に戦争が終わってもソ連領のシベリアに抑留され強制労働に従事させられて、敗戦から3年後の昭和23年にようやく帰還することができました。

義父が出征した頃は日中戦争(1937年〜45年)と太平洋戦争(1941〜45年)の戦火が広がった最中でした。二つの戦争では控えめな政府発表によっても日本人の軍人と軍属だけで230万人が死んでいます。日本本土と日本が侵略したアジアの国々で戦禍によって命を落とした人は2000万人を超えると言われています。

壺井栄の『二十四の瞳』で、大石先生が分教場で最初に教えた12人は男子が5人、女子が7人でした。戦争が終わり、分教場に戻ることになった先生を囲んでクラス会が開かれます。しかし、森岡正、竹下竹一、相沢仁太の姿はありませんでした。戦死したのです。岡田磯吉は失明除隊でかろうじて生き残りました。男子で無事だったのは漁師の徳田吉次だけだったのです。船乗りだった先生の夫さんも戦死していました。

兵士の戦死者の多くは食糧不足による餓死だったとも言われています。捕虜収容所で亡くなった人も大勢います。また数え切れないほど多くの一般市民や子どもが戦争の犠牲になっています。そんなことにも胸を痛めずにはおられない父の「軍隊手帳」の発見でした。(1月14日、一部修正)

 

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