「森岡孝二の描いた未来 ――私たちは何を引き継ぐか
森岡孝二先生を追悼するつどい」は、2019年2月23日に行われ、
338名の方々にご参加いただきました。
※開会あいさつ 青木圭介(京都橘大学名誉教授) 文章PDF
森岡孝二追悼の集い「開会のあいさつ」 青木圭介(京都橘大学名誉教授)
森岡さんは、慢性心不全という持病が急に悪化して、昨年8月1日に亡くなりました。かかりつけの医師は、「人工弁の入った状態でよく動いてきた」と家族に言われたそうです。これを聞いた時、私は何とも言えない気持ちになったことを覚えています。
1985年に 在外研究中の森岡さんは心臓血栓で倒れ、ロンドンの病院に緊急搬送され、帰国してから、大阪の循環器病センターで、人工弁を入れていました。しかし、森岡さんは、日常はたいそうお元気で、研究に教育に活動に精力的にとりくんでいて、医師に「病を押して、30年以上の間、よく頑張った」と言われるような状態だったとは、思っていませんでした。
森岡さんは経済学者、すぐれたマルクス経済学者でした。当時は「独占資本主義論の森岡」と呼ぶ人があるほど、切れ味鋭い研究を発表しています。その主な舞台であった経済理論学会、この学会は伝統のある大きな学会ですが、のちに森岡さんは その代表幹事を務めています。
1980年代後半からは、日本資本主義の宿痾ともいえる労働時間の問題に取り組み、男は残業、女はパート という労働時間の性別二極分化、この日本資本主義の構造を分析し、批判しました。森岡さんの労働時間研究は、「過労死110番」、1988年にはじめられたこの運動と、それを担ってきた松丸弁護士や川人弁護士の経済学に対する批判、「経済学者は賃金のことばかりやって、過労死の温床となっているサービス残業や異常に長い労働時間について、なぜ研究しないのか」という批判に、こたえるものに発展していきました。
さて、話すべきことはここからです。
2014年に関西大学を退職した時、森岡さんは 「私は社会運動家になる」と宣言しました。森岡さんはもともと社会運動家だったと思います。京大で指導を受けた、島恭彦先生は自治体問題研究所を設立されましたし、池上惇先生は基礎経済科学研究所を立ち上げられました。いずれも、すぐれた学者であると同時に、時代を切り開く社会運動家でありました。森岡さんは、大学紛争という激動の中で、まだ大学院生の時代だったと思いますが、「経済学研究のあり方と民主主義的共同研究体制」という論文を発表し、「大学における研究集団と、生活苦からの解放のために理論を求める民衆との結合は、常に新しい問題を提起し、より創造的な科学の展開を生み出すであろう」と書いていました。こうして森岡さんは、基礎研という社会運動を引っ張り、大阪第三学科という研究会を中心に、「働きつつ学ぶ」労働者研究者を育てる運動に取り組みました。
森岡さんが退職にあたって「社会運動家になる」と言ったのは、次のような意味を込めていたのではないかと思います。近年、労働運動や政治運動のような旧来からある運動ではなく、「新しい社会運動」ということが言われるようになりました。環境、女性、新しい貧困、格差、身分社会化、過労死、それにサステナビリティやディーセントワークなど、時代の必要から始まった社会運動を強く意識して、森岡さんは「新しい社会運動」と呼んでいました
その社会運動のネットワークの結び目として、現在の「NPO法人 働き方ASU−NET」を結成しました。ASU−NETのASU エー、エス、ユーは、Activist活動家、Support支援、Union共同という意味だ ということです。事務局の川西さんは、明日のためのネットワーク、アス、我々のためのネットワーク という意味も込めていた、と書いています。
それからまた、多くの方に寄稿いただきました、本日の記念誌を見てもわかるのですが、大阪生活と健康を守る会の大口さんや 損保の松浦さんのように、講演活動で接触した方々が、森岡さんの笑顔に引き込まれるかのように、それからも 交流を続けられるというようなことも多かったようです。私は、新しい社会運動の活動家は、笑顔の優しい人がふさわしいと思ってきました。
話を戻しますが、労働時間問題の研究に取り組むとともに、過労死弁護団や過労死家族の会と共に歩み、過労死防止学会、それから過労死防止法の制定 のための運動をすすめました。また、1996年に株主オンブズマンが設立されると、森岡さんはその代表に就任しました。新聞では「大学教授が社長になった」と書かれ、オンブズマンの活動が発展するとともに、代表の森岡さんが紙面を飾ることも多くなりました。
森岡さんは、「劇団きずがわ」の公演で、過労死された平岡さんの役で出演する時も、株主オンブズマンの代表を頼まれた時も、「私は演劇をやっていたので、舞台で踊るのは慣れています」と言って、二つ返事で引き受けました。文化人類学の梅棹忠夫は「請われれば一差し舞える人物になれ」という言葉を残しています。自分にできるところで 責任を担うとともに、もしリーダーに推されたときは、いつでも「立って一曲舞える」よう、日頃から用意をしておけ、というのです。森岡さんは、まさに「請われれば一差し舞える」リーダーシップを持った人であったと思います。
この集いは、「森岡孝二の描いた未来〜 私たちは何を引き継ぐか〜」という名称にしました。新しい社会運動、その活動家たちを支えあう、共同のネットワークの発展 を掲げ、自ら先頭に立って ネットワークを広げてきた、森岡さんの 思想と活動を引き継ぐ、新たな出発点となる集会にしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。