週刊エコノミスト論文「賃上げターゲットこそ、真の成長戦略」の紹介

 過剰生産恐慌、生産と消費の矛盾は、マルクスが「資本論」で解明した内容であるが、最近、デフレに陥りながら打開方向を示せない日本経済に関わって、提言や論文が経済誌に相次いで登場している。週刊ダイヤモンド10月30日号では「資本主義が危ない 政財官の論者14人が大激論」を掲載したことに感心した(後日紹介したい)が、「日経ヴァリタス」10月17日号、週刊エコノミスト10月26日号、みずほ総合研究所リポート10月7日付において、大企業内部留保、企業の貯蓄超過幅拡大に注目しながら賃上げや雇用拡大を提言している。「資本主義が危ない」では、八代尚宏氏など見当違いな論もあるが、セブン・アイホールディング名誉会長の伊藤雅俊氏は「資本主義のあり方を公益という観点から再考すべき時代が来た」と語っている。森岡孝二会長の強欲資本主義と新しい経済社会論に匹敵する論議はないものの現在の日本経済の停滞を克服するためには、「労働者の賃上げ」「内部留保の活用」という主張が次々に出されている。56回目をかぞえる国民春闘を前に、資本主義自身を問いかける声の高まりを期待したい。
 新日鉄系のシンクタンク北井義久氏は「同じような光景をこの十数年間、何度見てきたのだろうか。なぜ同じような議論を、何度も繰り返すのだろうか。その理由は、日本経済にとって最も重要な問題に関する議論がすっぽりと抜け落ち続けてきたからである。日本経済の最大の問題点は、賃金が上がらないことである」と指摘する。消費税問題や労働者派遣法、労働契約承継法の視点に違和感を感じるが、95年の経団連「新時代の日本的経営」から決別という大胆な主張など、大局にして働き方ネット大阪の主張とシンクロしてきていることに社会の進歩と革新性を感じることが出来た。是非、ご意見や感想を寄せて頂きたい。(服部)
(以下)
週刊エコノミスト [2010年10月26日号]
景気浮揚/日本に必要な成長戦略とは「賃上げターゲット」政策だ
◇北井義久(きたい・よしひさ=日鉄技術情報センターチーフエコノミスト)
 参議院選挙中における菅直人首相の消費税を巡る発言以降、将来の財源確保と財政赤字解消のために消費税増税は避けられないとの議論が目立つようになった。一方で、景気の先行きが怪しくなってきたなかで、追加経済対策の議論が始まり、日銀は追加金融緩和政策を決めた。

 同じような光景をこの十数年間、何度見てきたのだろうか。なぜ同じような議論を、何度も繰り返すのだろうか。その理由は、日本経済にとって最も重要な問題に関する議論がすっぽりと抜け落ち続けてきたからである。日本経済の最大の問題点は、賃金が上がらないことである。賃金を年2%コンスタントに上げることが、消費税増税の前提条件であり、海外経済動向に一喜一憂する必要のない内需主導の経済成長を実現するための必須条件である。
 まず、消費税増税は絶対に必要である。増税抜きに今後の日本経済をソフトランディングさせることはできない。日本は租税負担率が低すぎる。10年度に44兆円もの国債を発行せざるを得なかった理由は、不況で税収が落ち込んでいることもあるが、それ以上に歳出に比較して明らかに歳入が少なすぎることによる。事業仕分けなどでこのギャップを埋めることは到底できない。
 一方で、増税に耐えられる日本経済を実現することが政府の責任である。今のまま増税すれば、不況に逆戻りし、財政赤字がさらに増える。消費税増税を強行して、不況に突入した1997年の二の舞いになるだけである。
 まず、2%の経済成長を確実にすることが必要だ。そのためには、賃金を上げて個人消費を増やさなければならない。90年代半ば以降、日本の賃金はほとんど上がっていないが、米国の賃金はコンスタントな上昇を続けている(図1)。この差が日米の個人消費の動きに決定的な影響をもたらしている。

 ◇賃上げ余力は十分
 すでに日本の企業収益はピーク時の75%程度まで戻っている(図2)。企業経営者は世界水準に比べれば、まだまだ低いというだろうが、経常利益率は70年代以降の平均水準を超えている。これ以上、収益を拡大するために賃金抑制をすることは日本の経営者の独り善がりな発想だ。収益のパイの分け前を労働者へ分け与えるべきタイミングに既に入っている。

 日本全体の賃金コストは250兆円だから、2%上げて5兆円となる。これは足元の日本企業全体の経常利益の10%前後だ。さらに、中国などの新興国の経済が拡大し、日本の輸出が増えていけば、10%前後の増益を続けることは不可能ではない。ちなみに、野村証券は、主要企業の経常利益は、2010年度に50%以上、11年度に20%前後増加すると見込んでいる。
 また、日本企業は現在、30兆〜40兆円のフリーキャッシュフローを抱えており、その資金を借入金の返済や手元流動性の積み上げに使っている。そして、企業の余剰資金が銀行を通じて国債購入に回っている。個々の企業としてみれば、先行きの経済動向が不透明ななかで、賃金・設備投資を抑制しつつ収益を増やして、余剰資金を貯め込むのは合理的な選択だ。しかし、企業セクター全体がこのような選択をしているため、合成の誤謬が起きて、最終需要が増えないという結果を招いている。
 さらに、多くの企業経営者は日本の賃金は既に世界一で、これ以上の賃上げの余地は無いと言う。しかし、賃上げをしないと、円高と個人消費の低迷が生じて、結局企業も損を被ることになる。なぜなら、賃金を上げないから個人消費が増えず、需要不足だからデフレになる。さらに、デフレで日本製品の価格が下がるので、それが円の価格競争力を高める。企業は円高になって困るといっているが、賃金を上げないことで、自らその原因を作っている。企業経営者も安定的な内需の拡大を求めているのだから、賃上げが一番効果的な手段となることに気付いてほしい。
 しかし、今の状態で個々の企業が賃上げに踏み切ることもあり得ないだろう。賃上げした企業は、賃上げをしない企業にタダで需要を作ることになるからだ。このような状態を「市場の失敗」と呼ぶ。したがって、ここがまさに政府の出番になる。
 まず実行すべきは「賃上げターゲット」政策だ。政府が「今後2年で名目賃金上昇率を2%上げるようにさまざまな政策を展開します」と言えばいい。ただし、無理やり、企業に賃上げを迫るということではない。非正規労働者、解雇規制、企業制度の問題などについて、賃金が上がりやすくなるような政策パッケージを打ち出して、それを着実に実行すればよい。これこそが最高の成長戦略だ。5兆円の賃上げはそのほとんどが国内需要の拡大に結び付き、新産業の成長チャンスの拡大につながる。消費市場の活性化なしに、新産業がスムーズに立ち上がることは難しい。

 ◇労働者に有利な制度に舵を切る
 賃上げターゲット政策は、時間をかけて段階的に進める必要がある。日本が先進国のなかで最も賃金抑制に成功した理由は、90年代半ば以降徐々に企業・労働者の交渉力を企業有利な方向に変化させてきたことにある。時間をかけて真綿で首を絞めるようにさまざまな政策が導入されたことで企業の雇用調整能力は高まり、労働者に雇用と賃金の二者択一を迫ることが容易になった。従って、2%前後のゆるやかな賃金上昇を実現するには、同様に時間をかけて交渉力を労働者に有利な方向に動かすしかない。また、当然のことながら拙速なルール変更は、日本企業の海外への生産シフトを不必要に加速させる。せいては事を仕損ずる。
 具体的な進め方としては、まず、企業の雇用調整能力(経済情勢に応じた雇用増減余地)を著しく高めた非正規労働者に関する規制緩和の流れを逆転させる必要がある。先の通常国会に労使の合意を得て「労働者派遣法改正案」が提出されたが、継続審議とされてしまった。改正案には、製造業派遣の原則禁止、登録型派遣の原則禁止、違法派遣に対する「みなし雇用義務」、専ら派遣の規制強化(特定企業だけを対象とした派遣業務の禁止)などの項目が含まれており、規制緩和から規制強化に舵を切ったものとして評価できる。規制強化の動きに合わせて、派遣社員を直接雇用に切り替える動きが大企業を中心に既に出ており、まずは改正案を早急に成立させる必要がある。
 また、「抜け穴」を防ぐために、労働者派遣事業に関する是正指導を引き続き強化せざるを得ない。
 例えば、製造業派遣は原則禁止されるが、1年以上雇用する「常用型」であれば派遣は許される。しかし、1年以上雇用する見込みであると申請した後に見込み違いであるとして途中解約するケースも考え得る。同様に、登録型派遣が認められるソフトウエア開発、通訳など専門26業種に関しても、専門性の定義を実情に合わせて厳しくすることが求められる。ちなみに、労働者派遣事業に関する指導監督実施件数は、04年度の4653件から09年度には1万2284件に増加している。非正規雇用者問題に対する世論の批判の高まりを反映している部分はあるが、依然として違法な派遣労働者の利用が後を絶たないことを示している。
 また、派遣事業所数は00年代に急増しており、09年度には8万3677に達している。これに対して監督する職員は中央・地方合わせて539人である。この体制で法改正後の監視・指導体制が十分であるかに関しても、検討する必要がある。
 一方で、企業の側に対する一定の配慮も必要である。労使双方にとってのソフトランディングを実現するために、改正案が当初から予定した通り公布から完全施行まで3〜5年間の経過期間を盛り込むべきである。さらに、労働政策審議会で合意されていた「事前面接」の一部解禁(派遣会社に常用雇用されている派遣社員に関しては派遣先の事前面接を認める)に関しては、本来的に望ましいタイプの非正規労働者を増やすものとして認めるべきであろう。
 また、正規労働者と非正規労働者との処遇格差の問題に関しても、その縮小を図る方向で政策を展開する余地がある。オランダでは、90年代初めに労働組合がパート労働者の正規化を目指すのではなく、パート労働者の処遇を正規労働者に等しくするとの方針を打ち出した。その結果、96年の労働法改正で、正規労働者とパートタイム労働者との間で、時間当たりの賃金、社会保険制度への加入、雇用期間、昇進等の労働条件に格差をつけることが禁じられた。このような「オランダ・モデル」と呼ばれている方向が、日本が目指すべきかについても議論を深める時期に来ている。

 ◇消費低迷が空洞化を招く
 次に、希望退職制度に関してもその功罪に関して政府・企業・労働者が率直に意見を交換すべきであり、規制強化に踏み込む必要もある。希望退職制度は、企業側に有利と考えられる判例が積み重なったことにより、正規労働者(常用雇用者)に関する雇用調整手段として企業にとって欠くことのできないものとなった。
 例えば、00年には「逆肩たたき条項」(企業の承認しない従業員は希望退職制度への応募が認められない)が認められ、さらに退職加算金を募集時期・所属部署等により差別することも問題なしとされた。このような判例の積み重ねにより、企業が正規労働者のなかの特定のグループを狙い撃ちにして退職を勧奨することが可能になった。その結果、00年代に入って希望退職制度は、景気後退局面における正規労働者のリストラ手段として完全に定着した。このような労使関係の変化が、企業側に有利に働き賃金抑制をもたらしている。
 最後に、会社分割制度の労使関係に与えた影響に関しても論議を始めるべきである。90年代以降、日本企業の柔軟な組織再編成によって国際競争力を高めることを目的として、97年に合併制度の簡素化、99年に株式交換制度が導入され、01年の会社法改正で会社分割制度がスタートした。会社分割に関しては、制度新設が検討されていた時期から、会社側が会社分割を口実として解雇・労働条件の切り下げに利用するのではないかとの懸念が労働者側から示されており、それに対する歯止めとして「労働契約承継法」が同時に成立し、会社分割時点での一方的解雇や処遇・賃金の切り下げが禁止された。
 しかし、中長期的な賃金抑制とそれによる企業収益の向上を目指した会社分割がこの10年間で数多く実施されており、会社分割後に時間をかけて賃金切り下げや人員整理が行われていると指摘されている。赤字部門を会社分割により別会社化した後に、希望退職により正規労働者をリストラし、非正規労働者として再雇用することで、赤字会社を黒字化する道が開かれたのである。会社分割による人件費削減なしに雇用を守ることはできないとの主張も可能だが、会社分割によって生じた収益が従業員に配分されることはなかった。この点で、会社分割は結局、株主・経営者により有利な制度と言える。したがって会社分割制度に関しても、制度見直しの必要性を検討する必要があり、労働契約承継法の強化も考慮すべきである。
 このように、企業・労働者の交渉力を労働者に有利な方向に変えることに対しては、製造業を中心とした空洞化をもたらし中長期的にみて日本経済にとってマイナスであるとの批判がある。このような批判に対しては、賃金が上がらないことによる内需の低迷の方が、空洞化をより加速する恐れがあるとまず答えたい。
 また、これまでの企業有利な制度変更により、どの程度雇用が守られたのか疑問は多い。例えば、規制緩和により製造業における非正規雇用は00年代に急増したが、その多くはリーマン・ショック後の不況により雲散霧消しており、現状の内外経済の状況を見る限りでは、非正規雇用の規制強化の有無にかかわらず、再び製造業における非正規雇用が増える可能性は低い。
 さらに、正規労働者を多く含む団塊の世代の完全退職により労働人口は確実に急速に減少する。従って現時点で、企業が正規労働者を一挙にリストラするとは考えにくい。
 そもそも、企業にとってみれば、賃金・雇用条件は立地を決定する場合の一要素に過ぎず、賃金の2%前後の上昇や非正規雇用の規制強化が雇用の数十万人以上の減少を伴う空洞化に直結するとは断言できない。雇用維持にとっては、国内市場の規模維持がより重要である。個人消費を中心とする国内市場が安定的に増えることが期待できるのであれば、企業が雇用を削減する可能性は低い。今後労働人口が減り続けるなかで、賃金が上がらなければ個人所得は減少し、個人消費が縮小することは避けられない。
 現状はまさにこのような状況にあり、その結果企業は雇用を削減するオプションを模索している。個別の企業にしてみれば、賃金を抑制し雇用リストラを進めることが現状で最も適切な経営戦略であり、一歩一歩この方向に日本企業はまた進みつつある。

 ◇「新時代の日本的経営」から決別
 しかしここで、政府が賃上げターゲット政策を打ち出せば、確実に賃金は上がるようになる。なぜなら、日本で賃金が上がらなくなった最も重要な原因は、日本政府が企業の人件費削減要求を認め、企業に有利な方向に労働市場のルールを変えたことにあるからだ。
 その象徴が95年に当時の日本経営者団体連盟(日経連、現日本経済団体連合会)がまとめた「新時代の『日本的経営』」いう報告書である。労働者を、第1のコースの従来型正社員、第2のコースの特殊な技能を有している契約社員、第3のコースの単純労働を中心とする派遣社員・パート・短期契約社員の3つに分け、企業が柔軟にこの3つのカテゴリーの労働者を使うことができるようにすることが、日本企業の国際競争力を高めるために必要だと論じている。日本政府は、この日経連の要望を受け入れ、労働者派遣法の改正、解雇規制の実質的緩和(早期退職制度の導入等)、会社分割の法制化などを相次いで実現させ、労働市場における交渉力を著しく企業に有利な方向にシフトさせた。
 結果的に、日本の労働慣行は大きく変化するとともに、賃金はほとんど上昇しなくなった。日経連の目標はほぼ100%達成された。しかしその副作用として、個人消費の伸び悩み、慢性的なデフレ・円高懸念が企業を苦しめている。さらに、株主・経営者・従業員の3者を比較してみると、賃上げ抑制が本格化し始めた00年代に従業員だけが割を食っている。
 例えば、法人企業統計によれば、資本金10億円以上の大企業の1社当たり経常利益は、00年度を100として07年度には164に増えており、1社当たり配当は293、1人当たり役員給与は126(統計に段差があり実態は180以上と推測される)にそれぞれ増えているが、1人当たり従業員給与は98にとどまっている(図3)。日本企業はそれなりに収益を増やしているが、その成果は株主と役員にだけ配分され、従業員に果実は行き渡っていない。

 また、同じ従業員のなかでも、正規・非正規の間の大きな処遇の格差は縮小せず、若年労働者への教育訓練がおろそかになってしまった。このような歪んだ状況を変えない限り、安定成長など望むべくもない。成長の果実はバランス良く配分されなければならない。
 デフレも、格差拡大も、消費低迷も、円高も、財政赤字拡大もすべての問題の原因は、賃金が上がらないことにある。健全な日本経済を再び取り戻すために、中期的な経済目標としてゆるやかな賃上げを中心に据える必要がある。

この記事を書いた人