長時間労働とディーセント・ワーク

2014年3月11日 有斐閣「書斎の窓」連載
経済学へのタイムトリップ

第10回 長時間労働とディーセント・ワーク

中央大学名誉教授 中村達也〔Nakamura Tatsuya〕

「24時間戦えますか」

 「黄色と黒は勇気のしるし、24時間戦えますか」。ご記憶の方も多いのではなかろうか。ある製薬会社のドリンク剤のテレビコマーシャルである。容器に黄色と黒のデザインが施されたその商品の名が連呼され、そしてこう続く。「アタッシュケースに勇気のしるし、はるか世界で戦えますか。ビジネスマン、ビジネスマン、ジャパニーズ・ビジネスマン」。このコマーシャルが流された1988年は、実は、過労死元年として注目を集めた年でもあった。4月、大阪過労死問題連絡会が「過労死シンポジウム」を開催し、次いで「過労死110番」と銘打って、過労死の補償と予防についての電話相談を受けつけたのである(森岡孝二『過労死は何を告発しているか――現代日本の企業と労働』岩波書店、2013年、参照)。長時間労働が原因で死に至る過労死や、長時間労働が心身にストレスを生んで自殺へと追い込まれる過労自殺が、社会的に大きな関心を呼ぶようになったのである。

 その前年の1987年に、労働基準法が改正された。それまでの1日8時間・週48時間を上限とする労働から、「1週間について40時間、1日について8時間を超えて労働させてはいけない」こととなった(労働基準法第32条)。もしも現実の労働時間がこの条文通りで、週休2日、年次有給休暇20日、国民の祝日15日がすべて取得されるならば、年間労働日数は226日、年間労働時間は18008時間以内となるはずである。そうした状況がもし実現するならば、おそらくは過労死や過労自殺を生みだすことにはならなかったかもしれない。

 ところが、同じ労働基準法の第36条では、使用者が事業場の過半数の労働者で組織する労働組合、あるいは労働者の過半数を代表する者との間で、書面による協定を結び労働基準監督署に届け出れば、時間外および休日にも労働をさせることができるとされている。いわゆる36(さぶろく)協定である。この協定が認められているがゆえに、労働時間は、第32条の規定にもかかわらず、事実上、上限なしに引き延ばされてきたのであった。「24時間戦えますか」のコマーシャルが流されるのも、むべなるかなというわけである。

 労働組合が個別企業の枠を超えて社会的連帯を作りだすのではなく、労使協調の名の下に労働の論理が企業の論理に引き寄せられてしまう企業内組合の弱さが、その背景にはあろう。過労死や過労自殺は、その後も減ずることなく繰り返されてきた。関心を呼んだのは、国内だけのことではない。1988年11月13日付けの『シカゴ・トリビューン』紙は、「日本人、仕事に生き、仕事に死す」と書いて、日本の長時間労働の異常さを報じた。

【図1のC列】で示されているように、日本人の労働時間は、韓国やアメリカとならんで、OECD諸国の中では、最も長い部類に属する。

図1 労働時間・労働生産性の国際比較(2012年)
資料 : OECD:StatExtracts.EUROSTAT. ILO:ILOSTAT より作成
図は上掲 URL参照

労働時間は減少したか

 もちろん、そうした長時間労働に対する是正の動きがなかったわけではない。むしろ、かけ声だけは繰り返されてきた。1980年代の半ば、折から貿易摩擦が深刻化する中で、日本の長時間労働に対する批判が海外からわき上がった。「日本人はウサギ小屋に住む働き中毒である」とのEC(欧州共同体)秘密報告書が話題になったことも、そうした動きを後押しした。まずは、1987年5月、中曽根内閣の時に、「経済審議会建議――構造調整の指針」(いわゆる新前川レポート)が、西暦2000年に向け、できるだけ早期に「年間1800労働時間程度を目指す」ことを謳った。続いて、1988年5月、竹下内閣の時には、「世界と共に生きる日本――経済運営5カ年計画」が策定され、1992年度までに達成すべき公約として、「年間1800労働時間」が掲げられた。そして、1992年6月、宮沢内閣は「生活大国5カ年計画――地球社会との共存をめざして」の中で、「1996年度までに年間労働時間1800時間を目標とする」と謳った。しかし、くり返し「1800時間」が目標に掲げられ連呼されはしたものの、労働時間の短縮は遅々として進まず、過労死と過労自殺は依然として続いたのであった。「さぶろく協定」の威力は、遺憾なく発揮されてきたのである。

 よく知られているように、労働時間を示す統計として代表的なものが2つある。ひとつは、厚生労働省『毎月勤労統計調査』(毎勤)で、事業所が労働者に実際に賃金を支払った時間だけが集計されるもの。常用労働者5人以上の約190万事業所から抽出された約3万3千の事業所を対象に調査が行われるのだが、時間外労働をしていながら賃金が支払われない、いわゆるサービス残業時間は含まれていない。もうひとつが、総務省『労働力調査』(労調)で、個々の労働者が実際に就業した時間を、サービス残業時間をも含めて集計したもの。全国の約4万世帯およびその世帯員を対象に、毎月末1週間の状況を調査する。どちらの調査にもパートタイム労働者が含まれているのだが、前者は常用労働者のみに限定されるのに対して、後者は月末の1週間に1時間でも仕事をしたものをも含む。

図2 労働時間の推移
資料:総務省『労働力調査』、厚生労働省『毎月勤労統計調査』、森岡、前掲書より
図は上掲URL参照

 【図2】から分かるように、労働時間は長期的には確かに減少しているように見えるのだが、実は、それほど単純ではない。というのも、【図3】から分かるように、パートタイム労働者の比率が急速に増えてきたために、全体としての平均労働時間は減少してきたものの、フルタイムの労働時間は、ほとんど変化してはいないからである。総務省『社会生活基本調査』の2011年調査によれば、男性のフルタイム正社員の労働時間は週53時間、女性のそれは44時間。これを年間労働時間に換算すれば、それぞれ2756時間と2298時間で、かなりの長時間労働である。それだけではない。【図1のK列】で示されているように、週49時間以上の労働をしている人の割合が23.1%と、韓国の37.9%に次いで高いことが分かる。前回(連載第9回目)に、人間開発指数HDIを取り上げた際に、教育・健康・所得を総合化した人間開発指数HDIで見ると、日本は国連加盟185カ国中で第10番目(2012年)に位置することを見たのだが、それがどのような労働によって支えられているのかを考慮しなければ、生活の豊かさや福祉の実態を見誤ることになってしまう。

図3 パートタイム労働者の比率の推移
資料:総務省『労働力調査』、森岡、前掲書より
図は上掲URL参照

ディーセント・ワークと生産性

 労働(力)が商品として市場に組み込まれているのが資本主義経済の特徴だとしても、それは一般の商品とは異なり生身の人間から切り離すことのできないものであるから、さまざまな規制が人権尊重の立場から加えられるのはむしろ当然であろう。ILO(国際労働機関)は、自由、平等、安全、人間的尊厳の下で労働が行われるよう、これ までに189の条約を採択してきた(うち5つは状況変化のため失効)。そして1999年、フアン・ソマビア事務局長(当時)が、ILO総会に提出した事務局長報告の中で、21世紀のILOの目標を「人々すべてにディーセント・ワーク(decent work)を確保すること」と語った。ディーセント・ワークとは、自由、平等、安全、人間的尊厳が確保された条件の下で行われる、働きがいのある人間らしい仕事のことを意味する。

 ところで、日本はILOの常任理事国ではあるが、189の条約のうち批准しているのは48にとどまる。アメリカや韓国ほどではないものの、EU諸国に比べれば、批准数の少なさが際立っている(【図4のA列】)。とりわけ、労働時間・休暇・休日に関わる第1号、第14号、第30号、第47号、第52号、第106号、第132号、第140号、第153号条約がすべて未批准のままである(アメリカも同じ。韓国は第47号条約のみ批准)。さらに、【図4のB列・C列】で示されているように、労働組合組織率、労働協約でカバーされる労働者の割合の低さからしても、これまた働く人々の権利が十分に尊重される条件が弱いことが見てとれる。

図4 労働をめぐる諸状況
資料:ILO, ILOSTAT OECD, Economic Policy Reform,2011
エクスペディア,有給休暇,2011(但し、オランダは2008年) UNDP,Human Development  Report 2010
図は上掲URL参照

 EU諸国は、ILO条約の批准数が多いこともあって、労働時間・休暇・休日ををめぐる規制が概して厳しい。それだけではない。EU指令(Directions)によって、各国の労働時間・休暇・休日に厳しい条件が課されている。EU加盟国は、EU指令によって定められた目的を達成する義務を負っている。ただし、目的達成の方法や形式はそれぞれの国の選択にゆだねられる。労働時間・休暇・休日に関わる指令で重要なのが、1993年に制定、2000年、2003年に改正された労働時間指令である。これによれば、(a)1日24時間につき最低で連続11時間の休息期間を取ること。言い換えれば、1日の労働時間は、残業を含めて13時間が上限であること。(b)1週ごとに最低で連続24時間の休憩時間を設けること。したがって、(a)と合わせて、連続35時間の休憩時間を設けること。(c)1週間の労働時間は、時間外労働を含め、平均して48時間を超えないこと。(d)夜間労働者の労働時間は、24時間につき8時間以内とすること。(e)年次有給休暇は、最低4週間とすること、が求められる。

 以上のような条件の下で実際の労働時間・休暇がどのようになっているかを、【図1】によって確認してみよう。【C列】で示されているように、日本の労働時間(「毎勤」)は、韓国やアメリカと並んで最も長い部類に属する。そして、サービス残業時間をも含む「労調」の時間で比較すれば、日本の長時間労働ぶりはいっそう際立ち、【E列】で示されているように、日本と同程度の労働時間の国は、韓国のみということになる。その対極にある労働時間の最も短い国が、オランダである。【L列】で示されているように、オランダは雇用者のパートタイム比率が高いこともあるが、労働時間は、日本の79.1%(「毎勤」、2012年)、さらに「労調」の労働時間で比較すれば65.7%(同年)ということになる。

 一方、そのオランダの労働生産性は、就業者1人当たりGDP(購買力平価、USドルで換算)で見ると、【G列】で示されているように、日本のそれよりも19.8%高いことが分かる。さらに、就業者1時間当たりの生産性で見ると、【I列】で示されているように、「毎勤」基準で比較した場合には、日本のそれよりも50.1%も高く、「労調」基準で比較した場合には、【J列】で示されているように、日本のそれよりも80.8%も高いことが分かる。同時に、国民1人当たりGDPで見ても、【B列】で示されているように、日本のそれに比べて22.6%多い(いずれも2012年)。他のEU諸国も、程度の差こそあれ、日本に比べて労働時間が短いだけでなく、労働生産性が高く、国民1人当たりGDPも多いことが確認できる。オランダを含め、ILO条約の批准数が多く「ディーセント・ワーク」を目指している国、さらにEU指令によって労働時間・休暇・休日にさまざまな規制をかけている国の生産性と1人当たりGDPが高い水準にあるということは、果たして何を示唆しているのであろうか。その一方で、日本と並んで労働時間が長く、労働に関する規制が概して弱いアメリカの労働生産性と国民1人当たりGDPが高い水準にあるのはなぜなのか。回を改めて考えてみなければならない。

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