七夕の夜に、「過労死の存在しない社会」の願いを込めて

僕は、自分達の「正義」を声高に語る人たちが好きではなかった。
「正義」なんて、相対的な物にすぎないと思ってシラけていたのだ。
 
「現実」から目をそむけていたのかも知れない。
 
以前、過労死家族の会の会合に出席させてもらったことがある。
そこには「現実」があった。
過労死した遺族の人達の姿に、泣きながら自分達の境遇を話す人達の姿に、本当に追い詰められているのは誰か、っていう、
次に追い詰められるのは誰か、っていうこの社会が抱えるとてつもなく大きな課題をみた。
 
そして、次に追い詰められるのは、自分達にほかならないのだと、僕はブラック企業で鍛えた嗅覚で悟った。
そこにはシンプルだけど大事なものがあった。
 
命や健康を守れっていうのは、絶対的で普遍的な価値観でなければならないんじゃないか。
相対性とか中立性ってのは、何もしない自分に対する言い訳なんじゃないか。
 
あの時、僕の中で、何かが芽生え、何かが壊れて行った。
 
人は必ずいつか死ぬ。
しかし、「天寿を全うして死んだ人間」と「過労死・過労自殺で死んだ人間(企業に殺された人間)」とを同列に扱うことには何の意味もない。
その中立性には人間性がこれっぽちも存在しないからだ。 
 
殴られた経験のある人間にとって「殴られたら痛いかどうか」を議論することは無意味だ。
痛いに決まっているではないか。
僕らは、資本主義社会の不条理を、過労死を生み出す構造を、モノをいえない抑圧的な雰囲気を、ブラック企業で働く中で体で覚えた。
 
事実は、現実はすべてを凌駕する。
語る前にあきらめてしまい、行動する前にあきらめてしまい。何も­わからないのにわかったようなような顔して生きていくことをやめようと思った。
 
 
以前、過労死防止110番の街頭宣伝で、ハンドマイクで僕は語った。
「過労死の存在しない社会」をつくるという、ささやかな夢の実現のために、皆様のお力添えをいただきたい。
そんな内容だったと思う。
 
「過労死の存在しない社会」なんて当たり前で、それを目指すこと自体が本来ならばあってはならない、そうでない現状を批判的に述べたつもりだった。
 
だが、この夢は、ささやかな夢なのか?
 
あの言葉のあやまちをわたしは訂正しようと思う。
訂正というのが適当でないなら、付け加えると言ってもいい。
 
「過労死の存在しない社会」をつくるというのは、切実な夢なのだ。何が何でも、断固として成し遂げらければならない夢なのだ。
 
目の前の状態を無批判に肯定して「仕方ない」と言わないこと。
それが人間の知性だと思う。
「仕方ない」ではいけない。
目の前の現実を直視し、その現実を拒否しようと決意する。
行動することによって、何かが変わる。
それが人間の可能性であり、人間の社会の可能性だと思う。
 
僕は全力で「過労死の存在する社会」を否定する。
 
僕らにアンチの攻撃は効かない。僕らは、批判は謙虚に受け止めながらも、アンチの攻撃を自らの養分にしてさらに強くなっていく。
 
ユニオンのメンバーと話す中で、ブラック企業に入らなければよかったという話題になることがある。
だが、これは「ババ抜き」でババを引かねば良いという議論と同じだと思う。
 
そして僕は「これ以外にどんな生き方もありはしなかった」んだと思う。
 
「彼ら」と「自分たち」とを遮断する危うさを持つ今の時代の風潮に答えて、かつ自分達の生き方を外に向けて、宣言しているのだ。
「これ以外にどんな生き方もありはしない!」 と。
過労死の家族は、名前を出して、この問題を世に問うている。自らの­退路を断って、過労死させる企業に、社会の風潮に闘いに挑んでいる。
もしも、自分が同じ境遇におかれたら、と想像してみる。きっと同じ思いで、やはりそこにしか立ち­はしまい。 
「過労死の存在しない社会」をつくるために、命を燃やすだろう。
その想像力こそが、交代可能性への共感こそが、「過労死の存在する社会」へのアンチテーゼにほかならないのだから。
 
僕は、生き方が下手で、泥まみれの人生を送りながら、愚かで稚拙な敗北にまみれてきた。
多かれ少なかれ、地域労組や青年ユニオンのメンバーは、働く中で挫折し傷ついた経験を有している。
だが、生きて労働争議を経験できたことを幸せに思っている。
 
「過労死の存在しない社会を」
「人間らしく働くことができる社会を」
これは、僕らの切実な夢なのだ。
 
そして、この夢がかなえられる時、
稚拙な敗北にまみれてきた僕らの「過去」には新たな意味が与えられ、
過労死した方の「生」と「死」には新たな意味が与えられるに違いない。
 
愚かで稚拙な敗北にまみれながらも「人間らしい働き方」をゆめみて模索を続ける僕らの仲間の活動が、
あるいは、「過労死のない社会」をつくりたいと願う遺族の方々、過労死家族の会の活動が、
金のためにやっているなどと罵倒され、現実と折り合いをつけろなどと罵倒されながらもなお「無反省」にも放せないものだとしたら
どうぞ「夢」だと言ってくれ。
夢とは、もともと、「現実」と呼ばれるものを目の前にしたからと­いって退くような「現実」的なものではないのだ。
 
 
「過労死の存在しない社会を」
「人間らしく働くことができる社会を」
 
七夕の夜に、
夜空に輝く星たちに祈りと願いをこめて

                  2012年7月7日  北出 茂 (地域労組・大阪青年ユニオン)

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