朝日社説: 集団的自衛権―戦争に必要最小限はない

朝日新聞 2014年5月16日(金)付

 歴代の内閣が憲法9条のもとで否定してきた集団的自衛権の行使を、政府解釈の変更によって認めるべきだ――。

 安倍首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」がきのう、こんな提言を柱にした報告書を首相に出した。

 これを受けて、安倍氏は集団的自衛権の行使容認に向けた与党協議などの政治プロセスに入ることを表明した。

■自衛権の行使=戦争

 集団的自衛権の行使を認めるには、憲法改正の手段をとらざるを得ない。歴代内閣はこうした見解を示してきた。

 安倍氏が進めようとしているのは、憲法96条に定める改憲手続きによって国民に問うべき平和主義の大転換を、与党間協議と閣議決定によってすませてしまおうというものだ。

 憲法に基づいて政治を行う立憲主義からの逸脱である。弊害はあまりにも大きい。

 まず、戦争の反省から出発した日本の平和主義が根本的に変質する。

 日本が攻撃されたわけではないのに、自衛隊の武力行使に道を開く。これはつまり、参戦するということである。

 懇談会は、集団的自衛権を行使するには「わが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」「(攻撃された国の)明示の要請または同意を得る」といった条件をつけている。

 だが、いずれも単なる前提に過ぎなかったり、国際法上あたり前のことだったりして、明確な歯止めとはなり得ない。

 集団的自衛権を行使するかしないかは、二つに一つだ。首相や懇談会が強調する「必要最小限なら認められる」という量的概念は意味をなさない。

 日本が行使したとたん、相手にとって日本は敵国となる。

 また解釈変更は、内閣が憲法を支配するといういびつな統治構造を許すことにもなる。

 国民主権や基本的人権の尊重といった憲法の基本原理ですら、時の政権の意向で左右されかねない。法治国家の看板を下ろさなければいけなくなる。

 そして、近隣国との関係改善を置き去りにしたまま解釈改憲を強行することで、東アジアの緊張はかえって高まる。

■見過ごせぬ二重基準

 きのうの記者会見での首相発言は、理解しがたかった。

 懇談会は集団的自衛権のほか、国連の集団安全保障のもとでの自衛隊の武力行使に憲法の制約はないと解釈するよう、政府見解の変更を求めた。

 首相はこの考え方を「これまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合せず、採用できない」と退けた。

 それをいうなら集団的自衛権の行使容認も、これまでの政府の憲法解釈とは整合しない。

 それなのに首相は、「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置」は禁じられていないという72年の政府見解を引き、集団的自衛権は許されるとの考えは「政府の基本的な立場を踏まえている」と評価した。

 だが、72年の見解は、首相の引用部分に続いて「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と明記している。そこには触れぬまま提言を受け入れようというのは、二重基準によるごまかしとしか言いようがない。

 これから与党協議に臨む自民党や公明党の議員は、こんなまやかしを認めてしまうのだろうか。協議の行方から目を離すことはできない。

■9条のたがを外すな

 一方、集団的自衛権の行使容認とは別に、報告書は国連PKOの際の武器使用のあり方や、日本の領土・領海への武力攻撃とまではいえない侵害への対応にも触れている。

 「PKOでの武器使用に憲法の制約はない」という懇談会の提言は論外にしても、PKOなどの問題は、一つひとつ丁寧に検討すべき論点であることは確かだ。

 海外での武器使用に関しては、政府は9条の平和主義と国際社会からの要請とのはざまで、針の穴を通すような憲法解釈や立法を重ねてきた。そうした矛盾がPKOの現場で端的に表れてきたのも事実だ。

 しかし、それは憲法9条を尊重してきた日本国民が自らに課した「たが」でもある。

 この矛盾を少しでも解消するため、さらに知恵を絞るべきなのは当然のことである。ただし、憲法を改正するのでなければ、検討は9条の範囲内にとどめるのもまた当然である。

 首相は集団的自衛権の行使容認を突破口に、やがては9条のしばりを全面的に取り払おうとしているように見える。

 これが「戦後レジームからの脱却」の本質であるならば、看過できない。

 いったい何のための集団的自衛権の行使なのか。日本の安全確保や国際平和への貢献のために何をすべきなのか。その目的や手順を誤ってはならない。

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