第214回 労働者の「存在の耐えられない軽さ」について思う。秋葉原編

AKB48MMさんの丸刈り謝罪報道から10日余り経ちました。ネット上には今世紀最大のアイドル事件であるかのような情報が飛び交っています。私のような芸能音痴が口を挟むと大やけどしそうですが、前回書いた労働者の「存在の耐えられない軽さ」の続きに、思うところを述べてみます。

この事件については、和光大学教授でジャーナリストの竹信三恵子さんが「WEBRONZA」に「ブラック企業論からの検証」を求める論説を書いています。これはAKB48が企業であり、MMさんはその社員、したがって労働者であるという理解にもとづいています。

2011年4月、新国立劇場のオペラ公演に年間出演契約を結んだ合唱団員が、「労働組合法上の労働者」に当たるかが争われた訴訟で、「労働者に当たらない」していた一、二審判決を覆して、最高裁は労働者に当たるという判断を示しました。団員は年間の各公演の実施に不可欠な「歌唱労働力」として、新国立劇場の「組織に組み入れられていた」というのです。

これに照らすなら、MMさんの労働者性は否定できないように思います。AKB48自体も、オフィシャル・ブログで「中学生以下のメンバーは労働基準法に基づき、21時以降握手会に参加できません」とわざわざ断っているほどです。

ところがネット上に溢れているこの事件に関する情報には、MMさんがAKB48という企業で働く労働者であるという認識はほとんどありません。労働者と考えると、この会社は、?従業員である労働者の恋愛を禁じている、?そのルールに反したら会社はその労働者の自罰的丸刈り画像と反省文を公式サイトに載せて懲戒したうえで降格処分する、とんでもないブラック企業だということになります。

私はこの事件の報道に接して、労働者個人の「内心の自由」に踏み込み、労働者に対して命令への絶対服従を強いる橋下流組織マネージメントを連想しました。 そうした連想がかならずしも短絡的とはいえないほどに、今日の日本において労働者は耐えられないほど軽い存在になっているのではないでしょうか。

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