第10回 労働時間短縮には業務量に見合う人員増が必要

 第10回 労働時間短縮には業務量に見合う人員増が必要

 〔1〕「働き方改革法」の時間規制について報告(5/25 過労死防止学会)
 第5回過労死防止学会(5月25日、龍谷大学)の特別シンポジウムで報告を担当しました。「『働き方改革』による労働時間規制の問題点−−『健康に働く権利』を実現する視点から」という報告表題でした。過労死をなくすために集まった多様な分野の研究者、家族の会の皆さん、弁護士、社労士などの実務家、マスコミ関係の方々など、過労死をなくすために全国から集まった人々の前で、数年前に授業を担当したこともある教室で報告することは、私にとってとても意義深いことでした。
 過労死が問題になる中で、過労死を生む長時間労働をなくすことが社会的課題となりました。2014年には「過労死防止法」が与野党全議員一致で可決・成立し、初めて「過労死」が法律や行政用語として用いられることになりました。そして、毎年、「過労死防止大綱」を定め、それに基づいて国や自治体が先頭に立って過労死防止の活動が進められています。
 ところが、安倍内閣は、これとは異なる経営側要望に応える方向で議論を進めました。2018年に成立した「働き方改革法」は、?過労死認定水準(単月100時間など)の残業上限、?時間規制を受けない働き方(高度プロフェッショナル制。以下「高プロ」と略)導入、?裁量労働制拡大など、全体的に見て労働時間短縮とは逆方向の内容でした。そして、「この法改正では過労死はなくならない」(森岡孝二さん)などの厳しい批判が出されました。過労死家族の会をはじめ多くの市民団体、労働団体が法案に反対を表明したのは当然です。
 とくに、当初法案に含まれていた裁量労働制拡大について、政府は「裁量労働制を導入して労働時間が短くなったという調査がある」という説明をしていました。しかし、その根拠となる調査結果が「偽造」されたことが判明しました。杜撰な政府・厚生労働省の姿勢が明らかになる中で、安倍首相が陳謝したうえ法案から裁量労働制部分を削除するという異例の事態になりました。本来であれば、裁量労働制よりも緩和された「高プロ」撤回が必要でした。ところが、政府・与党は「高プロ」制導入を放棄せず、過労死を無くそうとする人々の強い反対を押し切って強行採決しました。それによって、「働き方改革法」の危険な本質が一層明らかになったと言えます。
 ここでは、私が最も言いたかった内容である「健康に働く権利」という視点からの労働時間規制のあり方に絞って、関連して参照したソウル市の労働時間短縮政策にも触れて説明してみたいと思います。
〔2〕「人間らしい労働時間」(Decent Work Time, 以下「DWT」)
 本来の「働き方改革」は、労働者の働く権利を実現する視点を明確にした法規制改革でなければなりません。そうした改革のためには、労働者が人間らしく働き暮らすための労働時間を「目標」として確立することが必要です。
 ILO(国際労働機関)やOECD(経済協力開発機構)は、新自由主義的流れが強まる中で社会的格差の広がりをなくすことと、「人間らしい労働(Decent Work)」を目指して、「雇用の質」改善を強く求めています。ところが、日本では、この「人間らしい労働」について、労働時間の面に注目してどのような基準を設定すべきか十分な議論が行われてきたとは言えません。過労死が大きな問題となる程に長時間労働慣行が蔓延している日本では、こうした「人間らしい労働時間(Decent Work Time)」を意識的に明確にし、これを「権利」として積極的に打ち出すことが必要であることを強調したいと思います。
 ※なお、「人間らしい労働時間(Decent Work Time)」という表現は長いので、以下、これを「DWT」と略して表現します。
 このDWTは、とくに新たな概念ではありません。私の現在の試論としては、「DWTとは、1日8時間、1週40時間、週休1日、年休(3労働週)完全取得、11時間以上の勤務間インターバル、病休その他必要な特別休息を確保することを前提にした労働時間」ということになります。長時間労働が広がった日本の現状では、このDWTを最低基準として守ることは、いかにも現実的でないという受け止め方が多いかもしれません。
 しかし、このDWTは、労働基準法、ILOの関連条約や勧告、EC労働時間指令などが求める最低基準の労働時間を意味しています。つまり、私の個人的な思い付きではなく、国内法や国際労働規範が求める最低基準の労働時間で、決して極端な概念ではありません。そして、このDWTの根拠は、?労働者の健康確保、?労働者の個人生活時間確保、?仕事の分かち合い(ワークシェア)であると言うことができます。
〔3〕DWT(人間らしい労働時間)を発想する三つのヒント
 このようなDWTを発想することになったヒントは三つありました。
(1)森岡孝二さんの指摘
 その一つは、森岡孝二さんが、「日本の労働者がすべて法定労働時間で働いて、残業を一切しなければ、500万人の雇用を創出することができる」とされた指摘です。
(2)最低賃金の議論
 もう一つは、最近になって進んでいる「最低賃金」をめぐる議論です。現在、全国一律の最低賃金が必要だということで、各地の生計費を測定して「人間らしく生活するには時給1500円以上の最低賃金が必要だ」という議論が高まっています。この議論を労働時間に延長して、「人間らしく働き暮らすためには最低基準の労働時間を客観的に確定することが必要だ」と考えました。これがDWTということです。
(3)ソウル市労働時間短縮政策
 そして、最後に、DWTを発想するヒントになったのは、朴元淳ソウル市長が2016年頃から進めてきた労働時間短縮政策です。この政策は、非常に具体的で興味深いもので、私の発想は、この政策に大きな影響を受けています。
〔4〕ソウル・朴元淳市長の労働時間短縮政策
(1)画期的な「ソウル型労働政策」
 日本とも酷似した長時間労働の韓国で、2011年秋にソウル市長に就任した朴元淳氏は、就任第一期では、ソウル市関連機関の非正規職の正規職化を徹底して進めました。現在まで約9000人以上が正規職転換されるという画期的政策を推進しています。
 さらに、朴市長が再選された第2期では、ソウル市関連機関の労働時間短縮も進めることになりました。2015年12月15日、ソウル市の投資・出資・支援機関の労働組合、使用者などが雇用創出のための「労使政ソウル協約書」を締結し、その協約の第4項には「良い雇用創出のために労働時間短縮によるワークシェア方案を用意する。ソウル市は2016年に労使と協議して投資・出資・支援機関の労働時間短縮方案を用意してモデル事業を推進する」という内容を明文化しました。そして、実労働時間把握と労働時間短縮のための必要労働者数算出などを労使が合意したのです。そのために、労働関連専門家に研究委託し、その調査報告に基づいて、綿密で体系的な時短方策が示されました。
(2)ソウル型時短政策の三つの基本原則
 研究委託を受けた「ワークイン組織研究所」は、イ・ビョンフン中央大学校教授を責任者にした研究陣で、「ソウル信用保証財団」と「ソウル医療院」をモデル機関に選んで、2016年、調査に基づいた時短の基本方向と細かな実行方策を提言しました。その際、この方策が、?実効性(モデル機関以外にも実効性と汎用性があること)、?保障性(労働者には賃金確保とともに生活時間を拡大し、機関には生産性向上、市民にはサービス改善を保障すること)、?公平性(労使政の負担を均衡あるものとすること)の三つの原則を踏まえることでした。
(3)時短モデル機関=ソウル信用保証財団
 モデル機関の一つとなった、「ソウル信用保証財団」は残業と年次有給休暇の未使用が蔓延した事務金融事業場でした。調査の結果、年間一人当たりでは、正規の労働時間(所定労働時間)が年1,992時間、これに残業時間が年388時間、これから年休105時間を差し引くと(未消化年休9日)、年間労働時間2,275時間と算出されることになります。そして、ここから、上記の3つの原則に基づいて、2021年までに労働時間を17%短縮(2,275時間→1,891時間)するという目標をたてました。
 つまり、総雇用創出規模は37人〜42人になるという展望でした。そのために、正規職として労働者27人を追加採用し、また、自己開発及び育児など仕事・生活両立のための「時間選択制雇用」も10〜15人を追加で創出することになりました。2021年1,800時間台に進み、2022年までに最終1,815時間水準に労働時間を短縮するという計画です。ここでは、人員増を非正規職ではなく正規職としての増員するという点で一貫していることにも注目できます。
※社会公共研究院『公共サービス拡充と雇用創出のための公共部門労働時間短縮方向研究』(2018年7月)
〔5〕人間らしく働ける「業務量に応じた必要人員」
(1)業務量に応じた必要人員
 このソウル市の時短モデルでは、残業がゼロ、年休を完全に取得することを前提として、それを、あるべき労働時間として設定しています。そして、あるべき労働時間を実現するために必要な追加人員を算出しているのです。これは、上記のDWT(あるべき労働時間)の考え方を前提にし、それを実現するために、つまり、人間らしく働けるために「業務量に応じた必要人員」を算出することが重視されているのです。
 このような考え方は、欧州の労働時間規制(協約)に見られるDWTの考え方です。韓国ソウル市の労働時間短縮政策は、こうした欧州のDWTの考え方を踏まえて適正な労働人員数を算出しているのです。人間らしく健康に働く労働者の権利を実現するためには、適正な人員が増員されなければならないという考え方です。
(2)必要人員数算出の図式化
 これを試論的に図式化すると次のようになります。
  総業務量(A)÷DWT(時間)=適正必要人員数(Wd)
 注)A=その職場全体の総労働時間数(正規の労働時間+残業時間−有給休暇時間)、DWT=人間らしい労働時間(残業なし、有給完全取得)、Wd=適正必要人員(workers of decent work)
 これに対して、日本では企業側が考える業務量を優先し、労働者が人間らしく働くことを基本とした業務量の規制がされてこなかったと言うことができます。
 つまり、1947年制定された労働基準法は、原則1日8時間、週休1日、年休(20日上限)を定めましたが、36条で労使協定(36協定)によって上限規制なしの法定時間外労働を容認してしまいました。もっとも、労働組合の力が強いときにはその弊害は小さかったかもしれません。しかし、その後、労働組合の力が大きく後退する中で、上限なしの残業や年休の未消化が一般化して、DWTに反する長時間労働が拡大することになりました。その結果、日本ではDWTの確立が軽視ないし無視され続け、企業側のみの必要に応じて、きわめて柔軟かつ長時間労働が可能な「日本的労働時間(JWT)」の慣行が蔓延することになってしまったのです。
 これを図式化すると次の通りです。
  総業務量(A)÷JWT(時間)=労働人員数(Wj)
 注)JWT(Japanese Work Timeの略称)、Wj(Workers of japanese work time)
 この図式では、JWTは「正規労働時間(所定労働時間)+残業時間(サービス残業を含む)−消化年休(時間)」を意味します。残業時間が膨大で、年休の未消化が大きいので、このJWTがきわめて大きくなります。その結果、労働人員数がきわめて少なくなります。これは過労死が広がる職場を示す指標になると思います。
〔6〕試算 ある職場での適正労働人員数
 この場合、業務量(A)は、JWT×労働人員数です。試算をしてみましょう。
 ある50人の職場(ブラック企業)を仮定します。
 所定労働時間が年2000時間、年休20日(=160時間)とし、残業一切なしとしたとき、
   DWT=2000-160=1840時間
 と計算します。
 実際は、平均残業が年500時間、年休取得が5日(=40時間、15日未消化)であれば、
   JWT=2000+500−40=2460時間
 となり、その職場での全業務量(A)は、
   2460×50=123,400(時間)
 ここから、A÷DWTを計算すると、
   123,400÷1840=66.8(人)
 が適正人員数となります。
 つまり、50人で66.8人分の労働をしていたことになり、皆が人間らしく働くためには、16.8人が不足していることになります。
 こうして算出された適正人員が確保されれば、過労死を生み出す職場状況を大きく改善することになります。そして、この考え方は、労働組合の要求、立法の根拠とするだけでなく、さらに使用者が健康配慮義務を果たしているか否かの解釈基準とすることができると思います。つまり、労働組合は、人員要求をするときに、こうした考え方によって必要人員を算出して、人員増要求の具体的根拠にすることができると思います。また、過労死などの認定基準の改善根拠としたり、民事裁判で業務に応じた人員を確保しない点で企業の健康配慮義務違反を示す一つの指標だと主張できると思います。
〔7〕労働時間算定の重要性(=裁量労働、高プロ制の危険性)
 重要なことは、上記のように、「人間らしい労働時間(DWT)」の考え方に基づいて、適正な労働人員数を算出する際に、実際の労働時間が確定されることが極めて重要な意味をもつことになります。ところが、政府・財界が推進している「裁量労働制」(みなし労働時間制)や「高プロ制」では、労働時間の正確な算定をしないことが中心的な内容になっています。これでは、総業務量(A)が明らかにならないからです。
 その点では、「エッセイ第9回」で紹介した通り、欧州司法裁判所(ECJ)が、2019年5月14日判決で「企業は従業員の労働時間を追跡し、記録しなければならない」とする画期的判断を下したことに注目する必要があります。
 この事件では、経営側(ドイツ銀行)は、「柔軟な労働制」では、従業員を信頼して時間算定を企業(使用者)ではなく、労働者の自己責任に転嫁しようとしていました。これに対して、ECJは、EU加盟国は、EUの法令によって労働者に与えられた権利を労働者が実際に享受できることを確実にすることが必要であるとし、また、労働者は雇用関係においてより弱い当事者と見なされる必要があり、したがって、労働者自身が権利を自己制限(サービス残業など)をしないようにする必要があると判示しました。そして、「各労働者の毎日の労働時間を測定することを可能にする客観的で信頼性の高い、アクセスしやすいシステムを設定すること」を各加盟国に求めたのです。
 日本政府や経営者団体が進めようとしているのは、ECJが示した、企業による労働時間算定強化とは逆の方向です。労働者に時間管理責任を転嫁する「裁量労働制」や「高プロ」制の拡大です。さらには、「副業・兼業」拡大も労働時間管理を複雑かつ曖昧にする危険性があり、また、「雇用によらない働き方」拡大は、労働法規制そのものをなくすものです。
 過労死を無くすためにも、「人間らしい労働時間(DWT)」を基にした適正な労働人員を客観的に確定し、不足する人員増を実現することが必要です。現在、労働組合のナショナルセンターは「36協定締結」を労働時間運動の中心に置いていますが、さらに進んで「人間らしい労働時間(DWT)」実現へ労働時間闘争を人員増と結びつける方向へ一段階レベルアップするべきだと思います。
【参考】
ソウル市動画 時間短縮→日本語字幕
エッセイ第9回「欧州司法裁判所が画期的判決。企業には全労働時間を客観的に把握・記録する義務あり!」
□社会公共研究院『公共サービス拡充と雇用創出のための公共部門労働時間短縮方向研究』(2018年7月)(韓国語 )
□ワークイン組織革新研究所『ソウル型労働時間短縮モデル開発及びモデル適用委託報告書』(2016年12月)(韓国語)
□金鍾珍(キム・ジョンジン)『共に歩む労働』(ソウル研究院、2016年10月)(韓国語)

この記事を書いた人