極度の長時間労働と暴力で自死…残業は過労死ラインの3倍近く (9/13)

極度の長時間労働と暴力で自死…残業は過労死ラインの3倍近く
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2019/9/13(金) 8:00配信 幻冬舎ゴールドオンライン

本記事では、朝日新聞記者・牧内昇平氏の著書『過労死: その仕事、命より大切ですか』(ポプラ社)より一部を抜粋し、長時間労働だけでなく、パワハラ、サービス残業、営業ノルマの重圧など、働く人たちをを「過労死」へと追いつめる職場の現状を取り上げ、その予防策や解決方法を探っていきます。

非常階段の踊り場で命を絶った…
2010年初冬、全国有数の繁華街「渋谷センター街」に立つ商業ビルで、当時24歳だった青年が自ら命を絶った。ビルの4階にあるステーキ店の店長を務めていた心やさしい青年を追いつめたのは、極度の長時間労働と上司からの暴行だった。これから紹介するのは、わたしが取材した自死事案の中でも特に過酷なケースである。

若者の街、渋谷。その中心とも言えるのが、JR渋谷駅ハチ公口前のスクランブル交差点を渡った先にある「渋谷センター街」だ。飲食店や洋服店、ゲームセンターが軒を連ね、朝から晩まで人の波が切れない。外食チェーン「ステーキのK(以下、K)」は、渋谷駅の方から渋谷センター街に入ってすぐの雑居ビル4階にある。地下1階は外国人客が多いクラブ、1階から5階には飲食店がひしめく。最上階の6階は、店舗従業員たちの事務室などにあてられていた。

2010年11月8日、「カズ」こと古川和孝さんは、屋上に通じる非常階段の踊り場で命を絶った。死亡推定時刻は午前1時ごろ。前日7日の夜11時半まで店で働いたあと、閉店後もしばらくビルに残り、決行したものとみられる。

わたしが和孝さんの両親、政幸さん(59)と美恵子さん(53)の取材を始めたのは2013年の夏。和孝さんが亡くなってから3年近くたった頃だった。当時両親は会社や暴行をはたらいた上司に対する裁判を起こしていた。それから5年ほどの間に二人への取材は10回近くに達している。取材はたいてい埼玉県内にある両親宅からほど近い喫茶店で行った。政幸さんは10代の頃から調理の仕事を続けてきた職人だ。一見がんこで気むずかしそうな印象だが、取材を重ねるうちに気さくに話をしてくれるようになった。

物静かな美恵子さんは記憶力がよく、政幸さんが話すのを目をつぶって聞きながら、少し不正確なところはすぐに「ちがうわよ」と修正してくれた。二人はいつも、小さなテーブルに肩をくっつけるように座っていた。もとから仲がいいのだと思うが、わたしには大事な息子を亡くした悲しみが、二人を磁石のようにぴったりくっつけてしまっている風にも見えた。

和孝さんが受けたことは「ひどい」のひと言に尽きる。だが、二人は心の中の怒りを取材者のわたしに見せることはせず、いつも努めて冷静に話して聞かせてくれた。

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「絶対違う。人違いだ。息子じゃない」
和孝さんは東京・杉並区のアパートで一人暮らしをしていた。埼玉県内に住む両親が息子の死を知ったのは、8日の午後のことだったという。

都内の老人ホームの厨房で働いていた政幸さんは、遺体の身元を確かめるため仕事を早退して渋谷警察署に向かった。最寄り駅から十数分で渋谷駅に着く。地下鉄に乗っているとき、真っ暗な窓の外をみつめながら心の中でくり返した。

「絶対違う。人違いだ。息子じゃない」

警察署に着くと、ベテランの刑事から7枚の写真を渡された。男性の遺体がさまざまな角度から写っていた。身長約170センチのやせ型体形。やさしそうな細い目。見紛うことのない顔がそこにあった。絶望感で胸は締め付けられ、「この写真は絶対女房に見せないでくれ」と、刑事に頼みこむのがやっとだった。

「カズを返して!返して!」
遺体安置所で対面した息子は眠っているようにしか見えなかった。遅れて到着した母・美恵子さんは「起きて!目を覚まして!」と泣きじゃくって息子の肩を揺さぶっていたが、なんだかすべてが夢のようで、政幸さんは遺体に手を触れることもできなかった。

先ほどの刑事が遺体発見時の状況を話してくれた。

「6階にある事務室のテーブルには携帯電話やタバコのケースが並べてありました。タバコを一本吸った形跡もありました。30年の経験で言いますと、息子さんは自殺とみて間違いありません」

遺留品の携帯電話には、自死の直前に入力したとみられる未送信メールが残っていた。

〈出来の悪い息子でしたが感謝しています産んでくれてありがとうございます相談なしですみません馬鹿で単細胞で仕事はしないでゆうことも聞かず迷惑かけましたすみませんでした1からやり直したいとおもいます〉

その晩、政幸さんは布団の中で朝まで泣いた。寂しくて、ほかにどうしようもなかった。一緒に布団に入っていた美恵子さんは、泣きながら近くにあった衣装タンスを拳で何度もたたいた。

「カズを返して!返して!」

息子がなにか理不尽な仕打ちを受けていたのではないかと、母は直感していた。

一日の拘束時間は13時間半から14時間におよんだ
和孝さんが勤めていた「K」は、株式会社Sが都内を中心に展開する外食チェーンだ。2016年に渋谷センター街店に行ってみると、テーブル席のほかにカウンター席もあり、40人ほどの客が入れる店だった。手ごろな価格のハンバーグやステーキがメニューに並んでいた。

和孝さんがこの会社で働くきっかけを作ったのは、他でもない政幸さんだった。1986年に生まれた和孝さんは埼玉県内の高校を卒業し、2005年に東京・銀座のレストランに就職した。ここでウェイター業務を2年経験したが、調理の腕を上げるため、転職先を探していた。当時政幸さんは「K」の入谷店で店長をしており、「それならオレの店に来れば」と息子を誘ったのだという。2007年5月から父のもとでアルバイトを始めた和孝さんは、数カ月後に正社員になり、都内の別の店で働くようになった。

実は、政幸さんは息子が亡くなる前の2009年3月にS社を辞めている。社長と経営の考え方が合わなかったのがその理由だったが、和孝さんはこのとき、「自分は続けたい」と言って会社に残った。

のちの話になるが、両親は渋谷労働基準監督署に労災を申請し、死亡から約1年半後の2012年3月に認められている。そして労災認定の2カ月後には、会社などに損害賠償を求める裁判を東京地裁に起こした。以下は、渋谷労基署の調査結果や地裁判決から分かった和孝さんの勤務の状況だ。

正社員になった和孝さんは、高円寺北口店や渋谷センター街店などで勤務した後、渋谷東口店の店長を任された。そして2009年11月頃からは渋谷センター街店の店長になっていた。

店長の仕事は、配膳、調理、皿洗いなどのほか、従業員の勤務シフトの作成や食材の仕入れ、などだった。センター街店での和孝さんの勤務時間は、通常午前10時から午後11時半または午前0時まで。休憩を挟むとはいえ、一日の拘束時間は13時間半から14時間におよんだ。驚くべきはその休日の少なさだった。渋谷労基署が認めたところでは、2010年4月以降の約7カ月間で、和孝さんの休日は2日しかなかった。月間の時間外労働(残業)は、ピークの5月で227時間30分、一番少なかった8月でも162時間30分に達した。

言うまでもなく、この残業時間は恐ろしい数字だ。前にも書いた通り、「月80時間超の残業」がいわゆる「過労死ライン」である。これを超えて働けば過労死する危険が高まるとされているラインだ。その2倍どころか、3倍に近い残業を和孝さんはさせられていたのだ。

(続)

牧内 昇平
 

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