藤田和恵さん「パワハラですべてを奪われた56歳男性の絶望 子会社へ転籍を命じられ、年収は200万円に」(8/8)

パワハラですべてを奪われた56歳男性の絶望 子会社へ転籍を命じられ、年収は200万円に

藤田 和恵 : ジャーナリスト
 
2019/08/08 5:30
 
〔写真〕脳出血を起こして重度の障害者となってしまった56歳男性の友人ミノリさん(左)が、彼の無念さを思い、会社にも社会にも居場所を失ってしまった顛末を語ってくれた(筆者撮影)https://toyokeizai.net/mwimgs/8/c/-/img_8cacb9f89647055b1518a2451b1fcad2243590.jpg
 
現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。
 
今回紹介するのは「以前より、この記事に取材していただいたら?と提案していた友人が、昨年12月に貧困とパワハラの果てに脳出血を発症して重度の障害者となってしまいました」と、友人の女性が編集部にメールをくれた、56歳の男性だ。
 
こわばった右手を、一回り小さな掌が包み込む。むくんだ指を1本1本もみほぐしていく。都内の、あるリハビリ病院の一室。右手の主である男性が「あーっ!」と声を上げると、マッサージをしている女性が「痛かった? ごめんね」と語りかける。
 
親しげな2人の様子は、父娘にも、恋人同士にも見えた。
 
□会社にも社会にも居場所を失った
「友人が昨年12月、貧困とパワハラの果てに脳出血を起こして重度の障害者になってしまいました」
 
編集部にこんなメールをくれたのは、会社員のミノリさん(39歳、仮名)。20年来の友人で、IT関連会社のシステムエンジニアだったマキオさん(56歳、仮名)は脳出血により、右半身麻痺や失語症などの後遺症が残り、今も会話が難しい状態だという。大病を患った友人が会社にも、社会にも居場所を失った顛末を、ミノリさんが代わって語ってくれた。
 
「理不尽だ。労働組合なんて、組合費だけ取って、何にもしてくれない」
 
いつもミノリさんの愚痴を聞いてくれるマキオさんが、仕事への不満を口にするようになったのは、2005年頃。関連子会社への一方的な転籍を命じられたことがきっかけだった。これにより、月数回の夜勤など業務内容は変わらないのに、600万円ほどあった年収は50万円以上ダウンしたという。
 
長引く不況の影響もあったのか、転籍後も、収入は右肩下がりの一途。そして、マキオさんは40代半ばで大動脈解離を発症する。さいわい、2カ月足らずで職場復帰できたものの、50歳を過ぎたとき、1度目の脳出血に見舞われた。このときは目立った後遺症はなかったが、会社側の産業医の復職許可が下りず、1年間の休職を余儀なくされたという。
 
ストレスを受けると、飲食が不規則になる傾向があったマキオさんは、ピーク時で体重が100キロほどあった。休職中は、日々の食事やリハビリ内容を事細かく上司にメールで報告するよう、求められていたという。
 
ミノリさんは「(会社からマキオさんへの)メールには『起きて行動している間の内容はすべて記載するように』と書かれていました。それに、何かとケチをつけては、報告のやり直しを命じていました」と話す。
 
あわよくば、このまま退職に追い込みたい――。ミノリさんには、会社側のそんな思惑が透けてみえたという。
 
□復職したものの年収は200万円に落ち込んだ
なんとか復職を果たしたものの、配属先はマキオさんの専門とは無縁の庶務部門。実際の仕事はトイレットペーパーの補充やポットの給水、郵便物の発送といった雑用だった。400万円近くまで減っていた年収は、夜勤がなくなったことで、さらに200万円に落ち込んだ。
 
この間、マキオさんは出費を抑えるため、より安い賃貸アパートへの引っ越しを繰り返し、もともと7万5000円だった家賃を、最終的には6万3000円に切り詰めた。それでも、通院費用や薬代がかさんでいたようで、アパートの更新料の支払いや、定期券の購入など物入りの月は、ミノリさんからお金を借りることもあったという。
 
何より負担だったのは、配属先の職場が自宅から片道2時間もかかる場所にあったこと。病気で体力が落ちていたマキオさんにとって、往復4時間の通勤は相当にこたえた。ミノリさんはこの頃、マキオさんが「体がしんどい。会社は『もっと職場に近いところに引っ越せばいい』と言うんだけど、『引っ越し代は出るんですか?』と聞いたら、『それは出せない』って……」と途方に暮れていたように話していたことを覚えている。
 
そして、昨年暮れ、2度目の脳出血――。会社からは、病院で付き添うミノリさんの元に、同僚が1人、マキオさんの入館証の回収に訪れたきり。その後の休職手続きなどは、人事部と書類をやり取りするだけで、上司や同僚が見舞いに来ることはなかったという。
 
「比較的大きな会社なので、通勤時間がもっと短くてすむ職場はあったはずです。針のむしろのような職場に、どんな思いで通っていたのかと思うと……」。なんらかの配慮があれば、2度目の脳出血は防げたのではないか――。そんな思いがぬぐえないという。
 
ミノリさんは取材のために、マキオさんが元気だった頃の写真や、日記帳代わりにしていた大学ノート、給与明細、業務に関する書類などを持参してくれた。いずれも、マキオさんが倒れた後、自宅を整理していたときに見つけたものだという。
 
マキオさんが就職したのは、バブル景気真っただ中。ミノリさんが、健康的に日焼けした男性の写真を示しながら、「若い頃のマキオさんです。社員旅行で行ったグアムでスキューバダイビングをしたときのもので、費用はすべて会社持ちだったそうです」と説明する。
 
超氷河期時代に就職活動を強いられ、派遣社員として働くしか選択肢のなかったミノリさんにとって、会社が費用負担をしての海外旅行など、まるで別世界の出来事だった。マキオさんの旅先での写真は、このほかにもたくさんあったが、家計が厳しくなるにつれて減っていき、ここ10年はほとんどなかったという。
 
ショックだったのは、大学ノートに走り書きのような文字で「元に戻りたい」「不安」「プレッシャー」などと書かれているのを見つけたとき。「休職していたときのものだと思います。このころは、(上司らによる)面談の後、『能力不足だと言われた』『いつ復職できるのか、教えてくれない』と不安がっていましたから」。
 
また、給与明細や、賃貸アパートの契約書に設けられた年収欄の記載を年代順に眺めると、年収が次第に下がっていく様子が一目瞭然。直近の預金通帳を見ると、毎月振り込まれる給料はわずか15万円ほどで、さらにクレジットカードのキャッシングなどによる借金が200万円ほどあることもわかったという。
 
ミノリさんは「(脳出血で倒れてからは)夜勤のない職場になったとはいえ、あまりにも安すぎると思いませんか」と憤る。
 
マキオさんの意識が戻って以後、ミノリさんはほとんど毎日、会社帰りに病院を訪れ、リハビリを手伝ってきた。手指をマッサージしたり、一緒に童謡を歌ったり。最近は「ありがとう」などの言葉を発することができるようになったほか、箸を使って食事ができるようになったという。
 
□両親によって地方都市の施設へ転院
話を聞きながら、私が最も気になったこと。それは、マキオさんとミノリさんの関係だった。2人は20年ほど前、SNSを通じて知り合った。悩みを打ち明け合ったり、一緒にコンサートに行ったり。多くの時間を共にしたかけがえのない存在だが、恋人ではないという。
 
自分の両親との関係がうまくいっていないミノリさんにとって、17歳年上のマキオさんは「幼い頃に甘えられなかった父親のような存在」。出会った当時は、マキオさんがミノリさんを無条件に甘やかすことで「育て直し」をしてくれ、そして今は、ミノリさんがマキオさんを「赤ちゃんを育てるように」看病しているのだという。
 
ミノリさんは、あえて表現するなら2人は「大親友」だという。ユニークではあるが、そんな関係があってもいい。ただ、それは法制度の下では、はかなすぎる絆でもあった。
 
7月はじめ、マキオさんは、両親によって実家がある地方都市の施設へと転院させられた。リハビリ施設も豊富で、何よりミノリさんが毎日、看病できる東京のほうが、回復が見込めるというミノリさんの主張と、早く地元に連れ帰りたいというマキオさんの両親の主張は平行線のまま。両親は意見がかみ合わないミノリさんを敬遠したのか、最後は、転院の日取りすら教えてもらえなかったという。
 
リハビリの付き添いという日課がなくなってから10日あまりが過ぎた7月20日、参院選の選挙戦最終日。ミノリさんはふいに思い立ち、「れいわ新選組」の演説会に足を運んだ。同党が比例代表で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者である舩後靖彦さんと、脳性マヒで重い障害のある木村英子さんを擁立したことに興味があったという。
 
ミノリさんはこのときの光景をこう語る。「(演説後)ほとんどの人は、微動だにしない舩後さんをスルーして、山本さん(山本太郎代表)や、健常者であるほかの候補者のところに集まっていきました。中には、舩後さんの足元にぶつかりながら通り過ぎていく人もいて。すぐに山本さんが気がついて、スタッフに舩後さんの足元をガードするように指示してましたけど……」。
 
ミノリさんは「重い障害のある人が国会に行く。それだけですばらしいことだと思っています」とも言う。一方で、自分の大切な友人は障害を負ったことで、やりがいも、生きがいも奪われた。
 
もしかすると、人々が舩後さんを「スルーした」のはほんの一瞬のことだったのかもしれない。それなのに、その光景ばかりがやけに脳裏に浮かぶ。そして、会社からも、同僚からも、まぎれもなく冷たくスルーされた、友人の無念を思わずにはいられない。
 

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