最低賃金が先進国最下位の米国で賃上げ論争 ― 時給9ドル構想で

ウォール・ストリート・ジャーナル 肥田美佐子のNYリポート2013年 2月 21日.

 最低賃金の上昇は、雇用創出の足かせになるのか。それとも、個人消費を押し上げ、景気浮揚の追い風となるのか――。

 日本では、安倍首相が財界に賃上げを要請したのを受け、賃金アップと景気の浮揚は両立可能なのかといった報道も目にするが、米国でも同様の議論が展開されている。

 米東部時間2月12日夜、オバマ大統領が、一般教書演説で、貧困解消のために連邦法定最低賃金(最賃)の引き上げを提案して以来、「最賃アップ」が企業の採用減を招くのか、経済を押し上げるのかをめぐり、シンクタンクや経済学者が熱い論戦を繰り広げているのだ 。

 現行の米連邦法定最低賃金は7.25ドル(約680円)だが、それを一気に9ドル(約844円)にすべきだというのが、大統領の主張である。年初から、アリゾナやコロラドなど10州で10〜35%ほど最低賃金が上がったものの、連邦レベルでは、2009年を最後にアップしていない。

 もちろん、財界や共和党が、オバマ大統領の提案をすんなり受け入れるはずはない。ベイナー下院議長は、早速、記者会見で反意を表明している。一般教書演説でオバマ大統領が最低賃金の問題に言及したとき、大統領の後ろに控えるバイデン副大統領のこぼれんばかりの笑顔とは対照的にベイナー下院議長がぶ然としていたことからも、共和党の反発が垣間見える。法案化されても、共和党が多数派を占める下院で阻止されるだろう。

 米メディアによれば、一般教書演説の翌日には、マクドナルドや米外食産業大手のブリンカー・インターナショナル、ドミノ・ピザなど、複数のファストフード企業の株価が下がっている。いずれも低賃金労働で知られる大企業だ。

 低所得労働者の権利擁護団体「全米雇用法プロジェクト(NELP)」が昨年7月に発表した報告書によると、外食産業には時給10ドル未満の低賃金労働者が最も多く、全従業員の57.4%を占める(09〜11年)。一方、米景気が弱々しい回復を続けていた10〜12年にかけて雇用の伸びが最多だったのも、外食産業だ(5.1%)。低所得の仕事は零細企業に多いと思われがちだが、実際のところ、低賃金労働で知られる企業の66%が、従業員100人以上の会社だという。

 こうした、低賃金労働者を戦力にしている企業の最大手50社には、世界最大の小売業ウォルマート・ストアーズやマクドナルド、小売り大手ターゲット、バーガーキング、スターバックス、中流層向け百貨店メーシーズ、ドミノ・ピザ、ブリンカー・インターナショナル、若者向けカジュアル衣料大手アバクロンビー&フィッチ、ギャップなど、小売りや外食産業の有名どころが並ぶ。その大半は、不況時でも好業績を上げている。

 最低賃金が上がれば、企業はコスト上昇を恐れて採用を手控え、雇用が悪化し、経済回復が遅れる――。これが財界や保守派の主張だが、そもそも米国の最低賃金は、そんなに高いのか。答えはノーだ。

 経済協力開発機構(OECD)の統計を見ると、先進国のなかで群を抜いて低い。2番目に安い日本(11年、9.16ドル)を大きく下回っている。トップのオーストラリアは、米ドル換算で15.75ドルという羽振りの良さだ。欧州勢も、ルクセンブルクが14.21ドル、フランス12.55ドル、アイルランド12.03ドル、オランダ11.38ドルという高さである。

 米国では、日本と違い、基本的に交通費が支給されない。また、低賃金労働者のなかには、福利厚生を受けていない人も多い。来年からオバマケア(医療保険制度改革)が完全施行されるが、すでに外食産業や小売り業界には、従業員への医療保険提供義務(週30時間以上の「フルタイム」に適用)を避けるべく、労働時間削減の動きなどが出ていると報じられている。こうした個人の負担を考えると、米国の最低賃金は、かなり低いと言わざるをえない。

 米シンクタンク「経済政策研究センター」(CEPR)によると、購買力平価に基づく米国の最低賃金は、1960年代後半にピークを迎え、12年時点の米ドル換算で9.22ドルだった。約半世紀前の最低賃金のほうが、はるかに高かったことになる。

 というのも、1947〜69年には、最低賃金も、生産性の上昇に比例して上がり続けたが、70年代を境に、その相関関係が崩れたからだ。平均的な米国人の暮らし向きが40年前より悪くなっているのも当然である。CEPRの試算では、生産性の上昇率からいえば、12年時点での米最低賃金は16.54ドルになっているはずだという。

 翻って最高経営責任者(CEO)の報酬は、依然として天文学的数字だ。たとえば、11年に最高益を上げたスターバックスのハワード・シュルツCEOは、2011会計年度 に、基本給として年俸140万ドル、ボーナス290万ドル、特別手当1200万ドル、3680万ドル相当のストックオプションなど、計6520万ドル(約62億円)を受け取っている(CNNマネー、12年1月27日付)。

 マクドナルドは、景気後退期にも、とりわけ目覚ましい収益増を記録したが、匿名従業員の内部情報に基づく米キャリア情報サイト「グラスドア(ガラスドア)」によると、レジ係174人の平均時給は7.65ドル。最低賃金をわずかに上回る程度だ。同社の従業員教育に携わったことがある米国人キャリアコンサルタントの話では、昨今は、1台のレジスターで複数のコンピューター画面を扱わねばならず、時間の制約を考えると、そう簡単な仕事ではないにもかかわらず、だ。

 景気回復で生まれた雇用の大半は、ファストフードの食品加工やレジ係、小売店の販売員など、時給が約13.5ドル以下の低賃金労働だが、米雇用統計の試算では、2010〜20年の10年間で最も成長が見込まれる職業30種の大半が、こうした仕事である。年収にすると、ファストフードの接客や食品加工などの外食産業(10年時点での中央値が1万7950ドル)、レジ係(同1万8500ドル)、清掃作業員(同2万2210ドル)、ウエートレス・ウエーター(同1万8330ドル)など、3万ドルに満たないものが多い。

 CEPRは、最低賃金を上げれば、こうした職種の離職率が下がり、組織の効率性が上がるなど、重要な「調整」が生じることで、雇用にはほとんど影響を及ぼさないと結論づける。最もお金を必要としている低所得層の可処分所得が増えることで、個人消費が伸び、景気刺激策の役割を果たすという声もある。

 不況下の人減らしや業務合理化による高収益で、かつてないほどの内部留保金を抱えているコーポレートアメリカ(米産業界)。日本の企業も余剰資金を積み上げているといわれるが、2月20日付のロイター通信によると、アベノミクスにもかかわらず、同社企業調査で、人件費や賃上げに前向きに転じた日本企業は1割にすぎないことが分かったという。

 世界第1位と第3位の経済大国として君臨する米国と日本――。だが、働く人たちを二の次にして勝ち取った国内総生産(GDP)にどれだけの価値があろうか。

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肥田美佐子 (ひだ・みさこ) フリージャーナリスト

東京都出身。『ニューズウィーク日本版』の編集などを経て、1997年渡米。ニューヨークの米系広告代理店やケーブルテレビネットワーク・制作会社などに エディター、シニアエディターとして勤務後、フリーに。2007年、国際労働機関国際研修所(ITC-ILO)の報道機関向け研修・コンペ(イタリア・ト リノ)に参加。日本の過労死問題の英文報道記事で同機関第1回メディア賞を受賞。2008年6月、ジュネーブでの授賞式、およびILO年次総会に招聘され る。現在、『週刊東洋経済』『週刊エコノミスト』『ニューズウィーク日本版』『プレジデント』などに寄稿。ラジオの時事番組への出演や英文記事の執筆、経済・社会関連書籍の翻訳も行う。翻訳書に『私たちは”99%”だ――ドキュメント、ウォール街を占拠せよ』、共訳書に 『プレニテュード――新しい<豊かさ>の経済学』『ワーキング・プア――アメリカの下層社会』(いずれも岩波書店刊)など。マンハッタン在住。www.misakohida.com 

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